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2017/04/16

30年前のままの駅前酒場@綾瀬の短冊メニュー。

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先日、綾瀬駅前の「駅前酒場」で飲んだ。野暮に連れられて初めて入った、コの字カウンターのみの酒場だ。

飲んでいるうちに、反対側のカウンターの壁に貼ってある、油汚れや変色の壁に同化して渋紙色を通り越した、やっと文字が読める状態の短冊メニューに気がついた。

「梅きゅう ¥300」と読める。

カウンターの中のおねえさんに写真撮ってもよいかと聞くと、よいと言う。

何年前のものだと聞くと、30年前の開店のときからだと言う。もとは駅の反対側の別の場所にあったのだが、移転しなくてはならなくなり、ここに移った、そのときからのものだと。

綾瀬といえば、駅の反対側の高架下に「三幸酒場」という、間口の広いカウンターだけのいい酒場があった。『続・下町酒場巡礼』(四谷ラウンド、2000年)で知ったのだ。

かつて南陀楼綾繁さんが『酒とつまみ』に「古本屋発、居酒屋行き」という連載をしていて、その取材におれはいつも同行しタダ酒を飲ませてもらっていたのだが、それで初めて行った。それから何度か行っているうちに閉店になってしまった。

いま調べたら、その「古本屋発、居酒屋行き」は、2004年6月発行の『酒とつまみ』第5号に載っている。連載の一回目だったのだ。

ついでに『続・下町酒場巡礼』も見た。

なんと、「三幸酒場」のところに、「目指すは「駅前酒場」。文字通り、駅から側道を入り、高架線のわきに「看板」があった。ただシャッターが降りていて、「暫く休業させて頂きます。」の貼り紙。小さな字で「会員の方は会長宅に電話して下さい」と添え書きもあった」とあるではないか。

続いて著者は閉店してしまったと思ったような書き方をしているが、たぶんこれは現在の店のことのようだから、何かの事情で「暫く休業」だったのだろう。

とにかく、この短冊メニューの醸す味わいは、その歳月がなければ出来ないものだ。それは、ここに集った人たちの人生のひとコマひとコマが、積もったり溶けたりしながら過ぎたものとも読める。

三幸酒場は、JRの再開発のためなくなってしまったが、同じような「駅前酒場」が残っていることは、うれしかったしありがたかった。というわけで、ここに来る前にもけっこう飲んでいたが、さらにボールを重ね泥酔帰宅だった。

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2017/04/15

「批評」と「品定め」「目利き」。

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前にも書いたが、周期的にテレビ出演の話がくる。それも、なぜか1社だけということはない。今回も2社からあった。全国ネットの番組だ。なにしろ全国ネットの番組の影響力は段違いに大きいから、売れないフリーライターのおれとしては、いつも何か接点があれば出演する気はある。なので、いちおう話は聞くのだが、ずっと断り続けだった。今回も、また。

それより、チョイとコーフンする面白いことがあった。

某誌の編集さんが、以前このブログに書いたことを見て、メールをくれたのだ。もう書いたことすら忘れていたのだが、編集さんはあるテーマを追いかけて、このエントリーを「発掘」したのだった。

それは、2008/02/15「「宮沢賢治の詩の世界」と「大衆食堂の研究」の出会い。」だ。
https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2008/02/post_b58c.html

これは宮沢賢治の「東京ノート」に記されている、「公衆食堂(須田町)」がどこかということをめぐるアレコレだ。

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公衆食堂(須田町)

あわたゞしき薄明の流れを
泳ぎつゝいそぎ飯を食むわれら
食器の音と青きむさぼりとはいともかなしく
その一枚の皿
硬き床にふれて散るとき
人々は声をあげて警しめ合へり
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016このエントリーを書いた段階では、「公衆食堂(須田町)」について、インターネット上にふたつの説があった。

ひとつは、現在の「聚楽(じゅらく)」の前身である須田町食堂とする説と、もうひとつは、このエントリーのリンク先のブログ「宮沢賢治の詩の世界」の方による、詩の内容と書かれた年を考えると須田町食堂はありえないという説だ。

このおれのエントリーでは、須田町食堂ではありえないほうをとっている。

それならば、「公衆食堂(須田町)」は、どういうことなのだ、どこなのだ、というモンダイが残る。「宮沢賢治の詩の世界」では、そのあたりまで突っ込んで、宮沢賢治が上京した当時の資料を駆使して、「ここではないか」というところをあげている。

これは、そういう可能性も濃いけど、それと「公衆食堂(須田町)」を結び付ける条件がヨワイ感じだった。

おれは、そのまま忘れていた。そのことを編集さんが思い出させてくれたのだ。

そこで、もう一度資料をひっくりかえし、新たな資料も見つけ、ああでもないこうでもない考えていたのだが、ついに、最も「ありうる」食堂にたどりついたのだ。

それは、ほんのちょっと視点を変えるだけでポッと浮かびあがったのだが、とかくひとの思考というのは、自由のようでいて、けっこう自ら縊路にはまちゃうものだなと思った。やっぱり、こだわってはいけない。

とにかく、取材もあったので、ついでにその「現場」周辺を歩いてみて、その「ありうる」食堂があったであろうあたりを確かめてみた。すると、大いに、ありうるのだなあ。

まだよく調べなくてはならないことが残っているが、とにかく、こういうことがあると思考力や精神までイキイキと解放された感じで、ヒジョーに気分がよい。やっぱり、自由が大事だよ。

それに、大正から昭和の初めの資料をたどっているうちに、ほかにも面白いことがあった。

それは「批評」と「品定め」と「目利き」についてだ。

いまにつながる大衆的規模の「食べ歩き」、つまり大勢の人たちが利用する飲食店などを食べ歩き、その食べ物や飲み物や店のたたずまいや雰囲気、人や仕事や技術といったものを評価し書くといったことは、関東大震災以後、昭和の初めごろから盛んになったのだが、その発端と影響は当時の新聞社の記者が書いたものだといえる。

それがいまでは大きな流れになっているわけだけど、それは「批評」というより「品定め」「目利き」であるということだ。そして、「品定め」「目利き」をしているのに「批評」や「評論」とカンチガイしている傾向も、すごく多いように思う。

昭和の初めの「食べ歩き」の記者たちは、そういうカンチガイはしてない。自分たちは、「上」の人間であり、そこから「品定め」をし、「品定め」することによって「善導」しているのだという、すごい高い意識を持っている。いまでも、かっこよく「批評」しているつもりの、こういう人たちがいるね。

最初に書いた、おれがテレビに出たくない理由のひとつは、その番組のつくりかたが、「品定めに、かれこれ興じあうて」いるからだ。これでは接点がない、と言えるのだな。

「批評」と、「品定め」「目利き」の違い、どれだけ理解されているのだろう。

「公衆食堂(須田町)」については、これからまだ取材し原稿を書くことになっているので、掲載の本誌が出たあと、このブログにも詳しく書くツモリ。ま、この食堂を特定したからといって、それ自体はどうってことないのだが、視点が変わることによって見えることが違ってくるというところが面白いのだな。

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2017/04/13

「業務スーパー」と「ナチュラルハウス」。

「業務スーパー」という店名のスーパーがある。近頃あちこちで見かける。「業務スーパー」という店名だが、一般小売もしていて、ようするに「激安スーパー」といわれるディスカウントストアと大差ない。

このあいだ、いま発売中の『dancyu』の春巻の取材で、午前は東京はるまきのある新小岩、午後は青山蓬莱のある表参道だった。東京はるまきの近くには「業務スーパー」があったので初めてゆっくり店内を見た。そして午後の表参道には「ナチュラルハウス」があるので、時間もあったし、ついでにのぞいてみた。

両者は、いろいろな意味で対極にあるわけだけど、それを続けて見て、その中間にある、おれが日常利用する食品スーパーのことを考え、コンニチの日本の構造を、じつに生々しく感じたのだった。

とくに階層構造については、まったく、食べ物というのは、身も蓋もないほど生活や、いわゆる「格差」を生々しく語るし、そこに見られる価値観や金銭感覚などの違いは、もはや異人種・異文化といってよいほどだと思った。

だけどそれぞれの日常は、ほとんどその違いを感じないほど、交差しないですんでいる。「ナチュラルハウス」の隣に「業務スーパー」があるなんてことはなく、ある距離を持ってそれぞれ自分の経済や好みなどにあった生活をしている。全体的に階層化が深化している結果だろう。

おれは、ナチュラルハウスに並んでいる食品とは、ほとんど無関係の生活であるし、うちの近所には「業務スーパー」はないので、おれが勝手に「Cクラス」と呼ぶスーパーで買い物をすることが多い。

その「Cクラス」スーパーには、冷凍の格安の魚の切り身や干物などが、無包装のままバラで売られている冷凍ケースがふたつ並んでいる。これは、一目で業務用をそのまま陳列したとわかるのだが、実際に「業務スーパー」には同じようなものがあった。

つまり、おれがよく利用するスーパーは、一部で「業務スーパー」と似た品揃えをしているし、これがかなり利用されている。そして、このスーパーの肉売場には、しゃぶしゃぶ用の豚肉はあるが、牛肉はない。店も客も、じつにシビアな関係にあるのですね。

このスーパーはウチから5分ほどだが、逆方向に10分ほど歩いた駅近くの「Bクラス」のスーパーへ行けば、しゃぶしゃぶ用の牛肉がある。が、しかし、わが家の家計では、やはり牛は躊躇する。だからこの「Cクラス」が、わが家の家計の実態にあっているのだけど、業務用のような格安の冷凍食品は買ったことがない。それは、子供がいない2人だけの生活だからだともいえる。

これで、もし毎月買う本の代金のために、さらに1000円でも浮かせるとなったら、あるいは酒場で一回2000円払う飲み代を、月にもう一回増やすとなったら、事情は違ってくる。

そういう家計のレベルと、「ナチュラルハウス」や、そこにあるようなスペシャルな志向の食品が置いてあるスーパーを日常利用できる家計のレベルの隔たりは、ずいぶん大きくなった。

それは90年代以後とくに顕著になったといえるだろう。ようするに同じ1000円でも、家計に占める融通の幅が狭まっている大衆が増えているのだ。「Aを買う1000円を、よりよいBに使おう」と考えられる幅のある生活と、その幅がごくわずかしかない生活が存在する。

そして、人びとは、その幅の中で暮らすことになれる。その垣根をこえて理解しあうことは難しくなっている。「格差社会」についても、一時ほど騒がれなくなった。そんなことを考えたのだった。

それはそうと、「業務スーパー」には、刻んだタマネギの冷凍品など、まさに業務用しかありえないものや、どう使うのかわからない西欧産の冷凍食品などがたくさんあって、いまの「世界」を目の当たりにしているようで、面白かった。

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2017/04/11

終わりは始まり。

チョイと備忘のためのメモ。

この春は知り合いや仕事関係に異動が多い。日本の会社に勤めていれば異動はつきものだし、近年はとっとと会社を辞めて事業を始めたり別の業界や世界へ飛び立つ若者も少なくない。

一昨日のエントリーの『dancyu』5月号には、dancyu編集長の「さよならのかわりに」という離任の挨拶のようなものがある。でもあと2冊は編集長を務めるから、離任の予告ともいえるか。

そのことがどうこうではなく、挨拶文の最後の言葉、「終わりは、始まりです。」が気になった。

このフレーズまんまではないが、ようするに「終わりは始まり」という趣旨の発言を、近頃よく見るような気がする。

一字ちがいでまったく違う意味になる「終わりの始まり」も、やはり目にする機会が増えているような気がする。

気がするだけかも知れないが、そうでないかも知れない。

おれの記憶では、「終わりは始まり」の表現をよく目にするようになったのは、1990年ごろのような気がして、手元の資料で調べてみた。

すると、ありましたね。

1990年、「重層的な終わりからの平成ビギニング」ってことで、「「終わり」は「始まり」」という表現が出てくる。

当時は、昭和が1988年に終わり平成になったばかり。バブルの最中と同時に昭和型一本調子の成長が終わり、いろいろゴチャゴチャ混迷の最中だった。そういう背景もあって、「「終わり」は「始まり」」が流行ったのだろう。

ただ、誰も、何の始まりかはわかっていない。好むと好まざると、新しいことが始まるのだという期待と不安のようなものだった気がする。

そうそう、この同じ資料には、「新当たり前」という表現も出てくる。これも同じ背景からだろう。

新当たり前というと、松浦弥太郎さんの『あたらしい あたりまえ』がありますね。この単行本の発売は2010年。

1990年から20数年のあいだに、『dancyu』という新しい雑誌ができたり、それよりずっと古い『暮しの手帖』の編集長に松浦さんがなったり、そういことがあったりしたわけだけど…。

混迷はまだ続くのだろう。

混迷は、一本調子の価値観からすれば悪い印象かも知れないが、これが新しい当たり前かも知れないし、毎日が終わりは始まりで面白いのかも知れない。ただ、「終わりは始まり」と思っていたのに「終わりの始まり」だったということがあるかも知れない。

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2017/04/10

『画家のノート 四月と十月』36号と「理解フノー」。

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美術同人誌『画家のノート 四月と十月』36号(つまり今年の4月号)が届いた。

表紙の作品は同人の加藤歩さん。加藤歩さんは、作家紹介を見ても、とくに「肩書」はない。「1976年熊本生まれ。旅人と詩人の雑誌『八月の水』に詩を寄稿。宮城県仙台市在住」とあるだけだ。

001詩人なのかと思ったが、「表紙の作品について」を読むと、表紙のお手玉の写真は、ご自分でお手玉を作って撮影したらしい。ま、「肩書」による属性なんて、どうでもよいのだ。

「…について」には、「てんやのおもち」というわらべうたの話がある。お手玉遊びの一種らしいのだが、「これをやるとこどもたちはいつも笑いころげ、「もう一回!」と目をきらきらさせていう」と、その情景が浮かぶような文だ。

おれが高校を卒業して上京する前の新潟の田舎では、周囲で女の子たちがお手玉をする風景が普通にあったが、「てんやのおもち」のことは知らない。

いつもの同人のみなさまの「アトリエから」を見ながら、近況などを知る。あいかわらず大いに活躍しておられる。

しかし、今号で見る同人のみなさまは、なんだかミョーに落ち着いた感じで、「優雅」とはちがうが、「好きなことをやって充足している私の生活」的な趣きがただよい、アグレッシブにしてパンキッシュな何かを感じさせる趣きがあまり感じられない。なんとなく、そこはかとなく、おだやかな平和な水の中で暮らしているような、落ち着きがただよう。

ま、そうそういつも、もだえたり切実なことに向かい合っていては、若くてもくたびれはてちゃうからなあ。でも。あるいは、おれが「切実」を求めてすぎているのかも知れない。

従来の連載に加え、ふたつ、新しい連載が始まった。小坂章子さんの「珈琲」と、本誌の中頁デザインを担当している青木隼人さんの「ギター」だ。

おれの連載「理解フノー」は、18回目で「「バブル」の頃① 錯覚」だ。「①」とある通り、続くのだ。全3回の予定だが、はたしてどうなるか。半年に1回で3回連続なんて、その間にいろいろあって気が変わりそう。だいたい生きている保証もない。

生きている保障もないといえば。

最後の見開きは、同人のみなさまによる「雑報」なのだが、扉野良人さんが「扉野良人と砂金一平さん」の題で書いていることに驚いた。胸のへんが痛んだ。

2月12日、市川市で「古書スクラム」という古書店やっていた砂金一平さんが亡くなられたというのだ。41歳の若さ。

扉野さんは、こう書いている。

「一度も会ったことなく、この夏、下鴨古本祭りで会う約束をしていた。一平さんのFBを遡ると十月三十日に、「なんの関係(「関係」に傍点)もない二冊を読了!」と、プリーモ・レーヴィ『アウシュヴィッツは終わらない』とエンテツさんの『理解フノー』を挙げていた。一平さんは「人間という生物とそれらがつくり出した世界については理解フノー」だと自分の内と外を見渡している。関係(「関係」に傍点)はある。ここにいるわけを、レーヴィもエンテツさんも一平さんも追い求めている。未来の友人に会いたかった。」

砂金一平さんは、ツイッターでも同様の内容をインスタグラムの書影と共にツイートしていて、おれはRTしていたのだった。

古書肆スクラム。(砂金)‏ @move_on_bench
なんの関係もない二冊を読了。関係はないけれど、人間という生物とそれらがつくり出した世界については理解フノーである。「アウシュビッツは終わらない」は人類必読の書。 https://www.instagram.com/p/BMKl2rkgpa-/
8:36 - 2016年10月30日
https://twitter.com/move_on_bench/status/792510367754809344

砂金さんのツイッターは、12月4日で終わっている。その日のツイート。

古書肆スクラム。(砂金)‏ @move_on_bench
体調がイマイチ。というか、こんなものなのかもしれないけれど、あゝ辛い。すべてがやっとの生活だけど、やっと暮らせているだけ、まだましか。弱音は吐くけど、負けてはいない。そういうメッセージ。
11:50 - 2016年12月4日
https://twitter.com/move_on_bench/status/805242836874498048

おれも砂金さんに会いたかった。合掌。

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2017/04/09

『dancyu』5月号で春巻サクサク。

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去る6日発売の『dancyu』5月号は、表紙肩に「春にして焼鳥を想う。春だから春巻と春雨が恋しいの?」のフレーズがある。第一特集が焼鳥で、第二特集が春巻と春雨なのだ。

おれは表参道の「青山蓬莱」と新小岩の「東京はるまき」を取材して書いた。

『dancyu』で書くのは、昨年の11月号以来だが、その11月号では東大前菱田屋の焼売を取材したのであった。

中華の点心というと、餃子、焼売、春巻に「三大」がついてもおかしくないほど人気だと思う。しかも大衆食といって差し支えないだろう三品だ。

011しかし、おれ的には、春巻は餃子と焼売にかなり水をあけられている。中華料理店に入って餃子と焼売と春巻があれば、餃子と焼売のどちらかか両方を頼み春巻が一緒のことはない。ま、人数がいるときは、春巻もね、となるのだが。

だから、編集さんに、「東京はるまき」という春巻専門店しかもテイクアウト専門店があると聞いて驚いた。「成り立つの?」というのが、最初の正直の感想だった。

「青山蓬莱」には、2度ほど、昨年秋にも行ったことがあるが、春巻は食べたことがない。

そんな調子で取材に向かった。

いやあ、原稿に書いたけど、これまでの春巻に対する自分の態度を反省した。

今回は、広告文のような書き方になっている。チョイとへんなところもあり、まだ修業が足りない。でもまあ、この春巻を食べに行ってみたくなるでしょう。

おれはときどき小岩の野暮酒場へ飲みに行くので、こんどは新小岩で途中下車しても、みやげに買うつもりだ。

それはそうと、餃子、焼売、春巻とも、「包む」料理であることが面白い。生春巻は別だが、家庭で作るとなると、それなりに手間がいる。なので外食やテイクアウトが頼りになるということがあるようだ。

でも、「包む」料理は楽しい。春巻の簡単なやり方も知ったので、こんどはウチでやってみる。

本誌を読んでくださいね。あまり知られてない春巻や春雨に関する知識やレシピの紹介もある。

当ブログ関連
2016/10/12
『dancyu』11月号で駒場東大前「菱田屋」の焼売。

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2017/04/07

「コクというのもどうやら韓国系で」。

昨日のエントリーの四方田犬彦さんで、思い出したのがコレだ。以前、コレを読んで、ぶっかけめしの話のとき、大いにヒントになった。

古い資料でも忘れていけないものがある。とくに、いまどきの、飲食ネタなら売れるからとメディアにあふれかえるヨタ話などに耳目をうばわれているより、ゆっくりコツコツ基本的なことを忘れないように集積しなくては、けっきょく歴史となる記録を破棄しながら一見新しそうで先進そうなことにむしゃぶりついて、そして荒野が残った、ということになりかねない。

ま、近頃は、政府が率先して記録を改ざんしたり破棄したりしているようなんですがね。そんな政府を支持して真似するなんて、とんでもないことなんですね。

『現代思想』1988年9月号は「特集 料理 食のエステティーク」だ。たくさんの問題提起やヒントがあって、いまになって、それ以後の「グルメブーム」を経た30年近くをふりかえってみると、ほったらかしになっている大事なことがたくさんあるのに気づく。

で、タイトルの「コクというのもどうやら韓国系で」というのは、ストレンジャー四方田さんが、玉村豊男さんとの対談「味の記憶、あるいは絶頂の瞬間」で述べていることなのだ。

「コクというのもどうやら韓国系で、クッパの「クッ」です」と。この「クッ」の後にはハングル表記もあるのだけど、ここでは略。

この場合の「コク」は、「旨味とコク」という場合の「コク」とビミョーにずれているところがある感じなんだけど、拙著『汁かけめし快食學』でも書いたようにコクそのものがアイマイなものだから、「質量感のあるうまさ」と考えればよいと思う。つまり、この対談が行われた頃には流行っていた、新発売のアサヒスーパードライの「コクがあるのにキレがある」の「コク」と同じものだろう。

それが「どうやら韓国系で」というのは、とても面白いと思ったのだった。『汁かけめし快食學』ではクッパのこともふれているが、その後、韓国の飲食に詳しい方といまでも付き合いがあるのだが、「旨味」や「ダシ」についても、韓国料理の味覚の大事なところを占めているようで、なかなか興味深いと思いながら、探求をほったらかしていた。

ところで、この対談は、読み返してみたら、いろいろ面白い。

とくに「食のエクリチュール」についての対話は、このころ以後のほうが、「食のエクリチュール」の氾濫が増大したわけで、いまでは食べログなんてのも生まれ、食や食の本について文章を書いたことがない大人のほうが少ないのではないかと思われるほどだから、なかなかタメになる。

とくに、トートロジーの吉田健一と北大路魯山人流の独断、それから「職人仕事の批評」をめぐるあれこれ、もちろん山本益博さんも俎上にあがり、飲食や料理などの批評の構造や可能性などが、ヨタ話も含めて、いま読む価値は大きい。

「イデオロギーとしての食物」も「「おふくろの味」の不気味」も、いまのご時世だからこそ、もっと考えねばなあ。

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2017/04/06

四方田犬彦『月島物語』。

四方田犬彦の本を読んだのは初めてだ。

鬼子母神通りみちくさ市の古本フリマで、タイトルの「月島」にひかれた。パラ見をしたらなんとなく面白そう、値段もたしか300円ぐらいだったので買った。

『dancyu』2014年11月号特集「東京旅行」で、おれは「東京の味って、どんな味?」の文を担当した。取材した店は、麻布十番の「総本家 更科堀井」、浅草の「浅草田圃 草津亭」、東大前の「呑喜」、そして月島の「岸田屋」だった。

「東京の味って、どんな味?」といったところで、この場合、テーマというより、お店を展開し紹介する切り口だから、あまり突っ込んだ内容の原稿にはできないのだが、取材のときは、けっこういろいろ聞いている。

それで、いちばん気になっていたのが、月島の岸田屋だった。ほかの店は、「東京の味」とくくることはできても、「土地」というより「専門料理店」としてのそれになっているが、岸田屋だけが、料理法からして、土地の味といえるようだったからだ。

その特集の岸田屋では、欄外に「1892(明治25)年の月島1号埋立地完成の頃から現在地」「「東京三大煮込み」の一つで有名、その陰に隠れがちだが、魚の煮付など土地に根付いた旨い味がある」と書いている。

では、その「土地」とはどんな「土地」なのか、それは、この本が、すごくうまくまとめている。

月島は佃島に隣接する埋立地だ。「埋立地は語る」では、江戸時代の佃島と隣接する石川島の成り立ち、そして明治になって東京湾の浚渫と埋立が計画され工事が着手され、竣工し「月島」の名が生まれ人が住むようになった経過が書かれている。

月島には、工場と、そこで働く労働者用の住宅が建ち、全国から労働者が流入し、発展した。江戸開府のころ家康の命で摂津の佃から集団入植した佃島とちがい、他所者の島だ。その流れは、著者が住みついたころ、大きく変わりつつあった。「ウォーターフロント」ってやつだ。

著者は、意図したわけではなくイキサツがあって、月島の築60年の三軒長屋に、1988年から94年まで住んだ。その間、雑誌『すばる』1989年1月号から90年7月号に連載されたものを元にまとめ、92年に集英社から発行になった。偶然にも、月島の誕生から100年目のことだ。バブルの最中。

「埋立地は語る」に、こういう話がある。月島の名がついてからは「制度的には」一号地、二号地という区分は「消滅している今日ですら、わたしは古くからの住民が「うちは一号地だから」とか「二号地の方はね」といった口調で、昔ながらの名称をふと用いてしまう場にしばしば出喰わしている」

おれは岸田屋の取材で実際に、三代目の店主である年配の女将さんが「うちは一号地だからね」というのに出喰わした。それで、先に引用の欄外の文章になった。

「うちは一号地だから」には、いろいろなニュアンスがこめられている。と、著者は具体的には書いてないが、おれはこの本を読んで、いろいろな「意味」が蓄積しているのだなあと思った。

佃島と月島の共同体文化の比較は面白い。著者がかつて暮らしたことのある東京の山の手地域のそれがからんで、さらに面白い。ストレンジャー四方田ならではというべきか、さすが比較文化の学者というべきか。

定住者と他所者、共同体意識の農村的と都会的とか、下町ではない月島を「下町」にしてしまう何か、なんでだろう。月島は、東京大空襲で焼けなかったために古い建物が残り、それもあって、「下町ブーム」と共に「下町」の記号を与えられてしまうのだが。

うしろに四方田と川田順造の対談「月島、そして深川」が収録されている。『男はつらいよ』について四方田は、満州からの引揚者である山田洋次の場合「本当の日本人は定住して、農村的な共同体の中で生きているはずだという考え方が前提になっているような気がします。だから、あれは下町というよりも、むしろ、彼が夢に描いた農村だと思うんですよね」

たしかに、あれは「農村的」だよなあ、『男はつらいよ』は、70年代初頭から始まる「ディスカバージャパン」キャンペーンの先駆けとして始まり増幅関係になったと位置付けてみるのも悪くないと思った。農村的共同体の性格は、まだまだ都会でも支配的であるような気がする。個人主義が、成長しにくい。

おれが初めて月島へ行ったのは1972年に間違いない。60年代後半まで佃の渡しがあったところに開通した佃大橋をタクシーで渡り、佃島ではなく月島にある当時の大洋漁業の冷凍工場を併設した冷凍倉庫へ行ったのだ。それから同じ仕事で何度か佃大橋を往復した。この本の「もんじゃ焼と肉フライ」に書かれている、「もんじゃ焼」が子供の駄菓子から大人の世界に変わり始めたころだ。おれは、駄菓子屋のもんじゃ焼も目撃している。

長屋からウォーターフロントのタワーマンションまで、月島は、近代100年の集合住宅の実験場でもあった。著者は、その大きな構造から内部の細部まで観察しているが、「衣裳の部屋」では、忘れそうなことを気づかせてくれる。いまは中途半端な2畳の部屋。かつては表玄関の台所。時代劇ドラマでもときどき見かけるが、長屋では玄関の三和土と同じ空間に台所があったのだ。それは共同の井戸を使用していたことによる。井戸から水道に変わったことで、空間の構造も変わった。

とかとか。「水の領分」では、盛んだった東京の水運と共に生きてきた「水上生活者はいったいどこへ行ってしまったのだろう」。きだみのると月島、吉本隆明の月島も面白かったが、とにかく、住民たちのエピソードなどで語られる「島」と「陸」の関係や、「共同体」と「個人主義」の関係など、ここに住んでみなくては書けないことが多く、興味深く読めた。

そして住んでみた著者は、「この町が日本のモダニズムの政治―社会―文化的な結節点」であるという。

これは、近代に成長した大衆食堂にも共通することがありそう、と思うのだった。

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