働く人の店。
「宮澤賢治の「東京」ノートと神田の食堂。」には、秋葉原の「かんだ食堂」が登場する。
そこにも書いたが、かんだ食堂の店主は、じつにキッパリとした口調で、「ここは、アキバで働く人の店」と言った。歯切れのよい爽やか口調だった。潔さが感じられた。
昨日書いた「作品」だろうと「商品」だろうと、「誰のために」というのがモンダイだろう。
本音をいえば「自分愛のため」というのは論外として、多くは「お客のため」というが、その「客」は誰か。たいがい多くは「働く人」ではないか。だが、そうはいわない。
「公共のため」という言い方もある。
昨年の『dancyu』2月号ラーメン特集で、おれは笹塚の「福寿」を取材したが、店主の「公共的な仕事をしていると思ってやっていた」という言葉を紹介し、「おれは驚いた。「ラーメンは芸術」より崇高な精神にふれたと思った。」と書いた。
「働く人の店」とか「公共的な仕事」など、飲食店の店主がポンと言うことなど、あまりない。
ま、取材する方のモンダイもあるのだが、出版の構造が「階級社会が固定化すると、底辺の人は知にアクセスできなくなってしまっている」という現状追認のもとで、売れるターゲットのために書き、市場で自分のイスを確保するために書く、ということになっているなかでは、仕方ないかなあという感じもある。
たいがいヒエラルキーに寄りかかって、エラそうな雛段を昇るしか道が見えない人たちもいる。バブルの頃からそうだけど、「いいものさえつくれば売れる」というのだけど、そういうあまり根拠のない全体像は根深く続いている。
ようするに、こういう現状追認のなかで、最初から「労働者」などの「底辺」は捨てられているのだ。
だけど、飲食業は、そうとは限らないのだなあ。
名のあるメディアに名をつらねる人たちに比べたら「しがない」存在と見られがちな、まちの飲食店の店主のこういう言葉は清々しいだけじゃなく、出版に関わるものも、どうしてこういう風に考えられないのかなと思う。
が、しかし、そうは簡単ではない。
おれは四月と十月文庫『理解フノー』の「気取るな! 力強くめしを食え!」に、「どのみち私は、労働者を貶めたり視野の外におく文化には、関わる気はないのだが」と書いていても、そのように生き抜くことが容易でないことは十分承知している。
それはともかく、今日、ネットで消費の全体像に関わる、おもしろい漫画を見た。
香山哲さんkayamatetsu.comの「紀行まんが」だが、その「(3)魚介類ですか」にあった。このまんが自体の世界もおもしろいのだが。
「どんな所得の人々が、どんなスピード、流量の消費をしてるか、そういう社会の設計の特徴がすごしやすさを決めている」と、絵で三つのパターンをあげている。
http://kayamatetsu.com/pagework/w13/p3.html
ターゲットが~とか、いいものつくっていれば~、などばかり言ってないで、もっと消費の全体像を考えながら、選択をしたいものだ。
やっぱり、自分もその一人である圧倒的多数の働く人たちの「すごしやすい」社会が必要だろう。そこに「読書」や本のマーケットが位置するとき、読書や本の未来が開けるのだと思う。そのためにコツコツやろう。
捨ててしまったら(視野の外においてしまったら)、捨てられた人は近づいてはこない。
当ブログ関連
2017/06/07
「宮澤賢治の「東京」ノートと神田の食堂。」
2016/01/15
発売中の『dancyu』2月号ラーメン特集に書きました。
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