「宮澤賢治の「東京」ノートと神田の食堂。」
一昨日5日発売の『みんなの 神田 神保町 御茶ノ水』(京阪神エルマガジン社)で、「宮澤賢治の「東京」ノートと神田の食堂。」の文を担当した。
もとはといえば、宮澤賢治の「東京」ノートに「公衆食堂(須田町)」というタイトルの短いスケッチがあって、これがいつごろのどこの食堂か、ということがインターネットで話題になっていたことに始まる。
おれもブログにそのことを書いたまま忘れていたのだが、それを、編集さんが見つけたのがキッカケ。
そのことについては、ここに書いた。
2017/04/15「批評」と「品定め」「目利き」。
https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2017/04/post-11b8.html
「公衆食堂(須田町)」については、最も可能性の高い公衆食堂を突き止めた。
インターネット上では、このスケッチが何時なのか日付の記載がないことから、よく食堂の話に出てくる現在の「じゅらく」の前身「須田町食堂」とする話もあったのだけど、研究者のあいだではスケッチが書かれた年月が推定できたため、そこではないという結論までは出ていた。
そのあたりは、「宮澤賢治が歩いた東京」の講演をしている、大妻女子大学の杉浦静教授を取材し確認した。杉浦教授の講演資料にも、「公衆食堂(須田町)」は1921年7月頃とあるのだが、須田町食堂は、まだ出来ていない。
そこのところを、もう一歩突っ込んで、探ってみた結果、有力な公衆食堂が見つかった。それがどこか、なぜそこの可能性が高いのか、それは本文を読んで欲しい。
それはともかく、この企画は、「公衆食堂(須田町)」がどこかを探るのが目的ではない。神田の食堂を、「東京」ノートに書かれたスケッチをネタに紹介しようというものだ。
おれは賢治の気分。
ならよいのだが、しかし、そうはすんなりいかない。賢治は飲食についてなぜか多くは書いていない。それに菜食主義で脚気にまでなっている。
だいたいこの種の企画では、飲み物や食べ物のうまさや店の雰囲気などを、ああだこうだ音の半音のちがいを聴き分けるようなオシャベリをするのがアタリマエで、そういうオシャベリを得意そうにしている作家や有名人を引っ張り出すものなのだ。そういう安全パイの安直な企画がほとんど。
清く正しく美しく聖人化された宮澤賢治は、ナチュラルだの自然だの天然だのというイメージの飲食には都合よいが、俗世間な神田あたりには向いていない。
でも、そこが、おもしろかった。飲食のステージは、大きくて広いのだ。
食に関心がなさそうなおかしな賢治と付き合って、考えることも多かった。宮澤賢治とその作品についても考えることが多かったし、飲食についても、別の角度から考えられた。
関係なさそうな関係に関係をみる。そこに、新しい可能性が生まれるんだよね。
ま、書くのは苦労して、自分でもどういうカテゴリーの文なのかわからないアンバイになったが、ありきたりからの脱出ジャンルということにしておこう。
こういう企画をグイグイ押す編集の半井裕子さんに脱帽。ほかの企画も、とてもおもしろい。
写真は、本野克佳さん。
取材した店は、ランチョン、栄屋ミルクホール、かんだ食堂。ご協力ありがとうございました。
杉浦教授の話はとても参考になったし、宮澤賢治について、あれこれ考えることが増えた。ありがとうございました。
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