「夢」のカンチガイ。
昨日のエントリーにある「夢」のこと。
1980年代から少しずつうるさくなり、バブル崩壊後は、ますますうるさくなった、「夢を持て」とか「夢を持とう」とかのたぐい。
そこで語られていることは、ほとんど「夢」とはいえないようなことが多い。
子供が将来「宇宙飛行士」になりたいとか「○○さんのようになりたい」とサッカー選手の名前をあげるようなもの、あるいは、近頃は、本を出した、雑誌や新聞やテレビに出て有名になった、ぐらいで「夢」がかなったなどという。
そういう、「努力をすれば夢は実現する」、といったたぐいの話には事欠かない。
だけど、それらは「事業」や「職業」の「目的」ていどのことがほとんどだ。
そういうものを「夢」とカンチガイしている。
世間がミミッチクなるのは、そのせいもあるだろう。
「夢」を語っているようだが、自分が求めている自分の「居場所」ぐらいのことが多い。
それは、ある種の事業であり、事業だからプランがしっかりしているかどうかなのだ。プランが雑だからうまくいかない、あるいは、しっかりしたプランを実行したから成功した、などの違いがでる。
それを「夢」がかなったとか、「夢」がやぶれたとかいったのでは、「夢」が可哀そうだ。
夢は、成功や、目的や、目標の、もっと先にあるものだろう。あるいは、仕事や事業に関係なく、人間として描く不確かな絵のようなもの。
現実を相手にプラン化して追求できるようなものは、「夢」というのはおかしいし、そういう「夢」はしっかりしたプランによって追求されるべき「事業」なのだ。
現実的なことに「夢」を持たせようとする流れが続き、「夢」についてカンチガイしやすい土壌があるが、そこにはある人たちのおかしな「下心」が見える。
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