料理と「家庭」と「生活」と「教養」?
新聞の「家庭部」や「家庭欄」の「家庭」は、いつごろ「生活」にかわったんだろう。気がついたらかわっていた。学校教育の場でも、「家庭科」が「生活科」にかわった。
戦前は「家庭部」であり、その当時の記事からすると、家庭部の記者は「家庭」を「善導」する自覚を持っていたようだ。「家庭人」という言葉もあって、「よき家庭人のために」というのが新聞の立場であるようだった。
戦後も、ながいあいだ、そういう「家庭」が続いていた。
70年代の後半に、「生活者」という言葉が広く流通し始めた。「生活者」は「家庭人」に対する概念であったかどうかは、はっきりしない。これがもし、「家庭人」に対する概念だったら「生活人」のほうが妥当だろう。
前後の社会の文脈から解釈すれば、「生活者」は、新しい消費社会における消費者というかんじだった。
ほかに「女の自立」なんてのがいわれ、そのあたりとも「家庭」は折り合いが悪くなっていた。
簡単にいってしまうと、大正期の第一次世界大戦を前後して、日本の産業構造は農業から工業へと大きく転換し(つまり都市化もすすみ)、その後戦時体制で軍事中心の産業構造になったが破たん、戦後工業化が一気にすすみ、70年代後半、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」がもてはやされたころには、日本の工業は行き詰っていた。
「家庭」の勃興と興隆は、この時期と重なる。
工業社会の行き詰まりを、日本は、ヤバイと「内需拡大」へ向かうクセを発揮して、内需を刺激して切り抜けてきた。そこにクローズアップされたのが「生活者」だった。
とにかく、そういう歴史があるからか、いまでも、料理をめぐっては、「家庭」と「生活」が混在している。それは、かなり比喩的だが、『家庭画報』や『ミセス』と『レタスクラブ』の違いと同一性みたいなものだ。
そして、じつは、このどちらでもない、もう一つの流れがある。
知的で教養的で文化の香りがする、うまい言葉がみつからないのだが、「家庭人」「生活人」ときたら、やっぱり「文化人」「教養人」あるいは「美学人」というダサイいいかたになってしまうが、料理をつくったり飲食を語ったりすることが教養や美学と結びついている人たちだ。
これらは情緒的に存在し、料理が科学的に存在するのをさまたげる働きをすることが少なくない。ま、いまだ合理的精神からはほど遠く、情緒的なほうが一般受けするのだな。
ってあたりを、いろいろこねくりまわしてみると、おもしろい。
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