系譜論のオベンキョウ、「日本的」や「ほんとうの日本」。
先日の「系譜論のオベンキョウ、『美味しんぼ』。」は、書いていたら長くなったので途中でやめてしまった。
「途中でやめる」は、山下陽光さんのブランドだけど、いいネーミングだ。なによりエラそうでなく、権威主義的なひびきがないのがいい。
『美味しんぼ』15巻には、「究極VS至高」のタイトルがついている。「究極」も「至高」も、はやりましたなあ。
「東西新聞文化部の記者である山岡士郎と栗田ゆう子は、同社創立100周年記念事業として「究極のメニュー」作りに取り組むことになった。しかし、ライバル紙の帝都新聞が、美食倶楽部を主宰する海原雄山の監修により「至高のメニュー」という企画を立ち上げたため、両者を比較する「究極」対「至高」の料理対決が始まる」
と、あまりあてにならないウィキペディアにはあるが、この巻がその対決の始まりなのだ。
1988年7月の発行で、究極VS至高(前編)(中編)(後編)のほかに、第4話「家族の食卓」、第5話「ふるさとの唄」、第6話「下町の温(ぬく)もり」があって、あと「不思議なからあげ」「大海老正月」「究極の裏メニュー」という構成だ。
「家族」「ふるさと」「下町」が、ここに揃って登場というのが、面白い。
1980年代中頃から、この3つは「失われたほんとうの日本」へのノスタルジーの受け皿として、三種の神器のようにセットになって機能するようになった。流行作家らしく、その動きを敏感に反映したものだろう。
同じ頃「江戸・東京論ブーム」が到来し、いまに続く「内向き」に拍車がかかった。この動きとB級グルメのつながりについては、だいぶ前に書いた。
2005/03/27
「「江戸東京論」ブームと「B級グルメ」ブーム」
「江戸・東京論ブーム」と「家族」「ふるさと」「下町」も、密接な関係がある。
この三点セットには、いろいろなことがからんでいる。たとえば「人情」「職人」「手仕事」、昔ながらの「折り目正しい暮らし」などなど。
そうして、「家族」「ふるさと」「下町」は、内向きのナショナルなイメージを引きうけてきた。
これは、日本的なものや本物の日本の系譜の「再発見」、つまりは70年代初頭からの「ディスカバー・ジャパン・キャンペーン」の到達点でもあり、新しい段階への突入、と、いまになると見えてくる。
深川育ちが紆余曲折の人生があってのち深川鍋を食べ、深川に生まれてよかった、ありがたく思う。その「深川」は「日本」と互換可能だ。
「本物がある日本」に連なる系譜だけが高く評価される。ようするに系譜論は一元論でもある。
日本にあったはずの本物が見つからなかったら、水でも何でも海外に「本物」を求め、それを日本で味わいながら、「本物の日本が失われた」ことを嘆く。そういう「ナショナリズム」でもある。
昨今のドメスティック志向の圧力は、1980年代中頃から、半端でなく複雑怪奇に積み重なっている。
ところで、『美味しんぼ』15巻の最後は、「究極の裏メニュー」だ。本物がさんざんエラそうにしたあと、本物の足元にもおよばない読者を哀れに思ったのか、「貧乏グルメ大会」が設定される。
参加者のそれぞれのメニューの試食が終わったあと、栗田ゆう子の言葉として、こんなふうなまとめがある。
「みすぼらしくて恥ずかしいようなメニューだけど、だからこそ一層、思い入れがあって大事なメニューなのね……」
そういう言い方はないだろう。
だけど、系譜論には、存在するものそれぞれのはたらきを評価し位置づける視点も方法もない。
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