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2017/09/23

「たこつぼ」を概観する。

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17日のみちくさ市連続講座「作品と商品のあいだ」いらい、「たこつぼ」が気になっている。

「たこつぼ」という言葉と現象が目立つようになったのは1980年代中頃なのだが、後半には「差異化・細分化のマーケティング」や「セグメンテーション」そして「閉塞」がいわれるようになり、対照的に「共感のマーケティング」などがいわれるようになった。

これらは「市場」のことであって、まんま「社会」というわけではないのだが、80年代以後の内需拡大策のもとでの津波のような消費主義は人びとを飲みこんで、「市場」と「社会」の区別もつきにくい状況になっていた。

「閉塞」は、やがて「分断」となり、「たこつぼ」については、言葉の流通としてはかなり少なくなった。そして「たこつぼ」のイメージも変化しているようだ。

「たこつぼ」つまり「蛸壺」は、写真のように蛸漁のための道具だが、これが一部の社会現象をとらえる言葉として登場したのが、1980年代中頃だった。

うまいぐあいに、「たこつぼ」という言葉が広く流通するようになったキッカケの一端を担った本が手元にある。

これでまず、その頃をふりかえってみよう。

「トレンドが読める、明日が見える」を謳った博報堂トレンド研究会著の『コンセプトノート84』は、84年4月の発行だ。版元はPHP。「コンセプトノート」は年次に発行され、広く影響をおよぼした。

84年版には、9つのコンセプトがまとめられているが、9つ目が「たこつぼ」だ。「さびしい世代にどうアプローチするか」という見出しがついている。

マーケティングの対象になるほど、「たこつぼ」は成長していたのだ。大部分は「若い世代」のことであり、それを「さびしい世代」と見たのは、著者の世代あるいは著者の立場の人たちで、そこにすでに「分断」の種があったようにも見える。

「我々が通常、この「たこつぼ」という言葉を使う場合は」「生活者における価値の多元化、それに伴うマイナーグループ化をさすことが多い。今の生活者は「たこつぼ」化しているから、テレビスポット広告で、バサッと網をかけるような媒体戦略は効果がない。きめの細かいターゲット細分化戦略が必要だ、というように使っている」

「こうした「たこつぼ」化は、小比木啓吾が『モラトリアム人間の心理構造』(中央公論社、五十四年七月)の中で「徹底した自己中心志向で、その関心は未来にも、そして過去にも、著しく狭い範囲に限られている」と述べているように、社会から隔絶し、自分だけの小宇宙をつくる真理から始まる」

てなぐあいに説明されている。

であるけれど、この「たこつぼ」コンセプトの説明の冒頭には、こう書いてあるのだ。

「前述の「胎内感覚」がいわば安全地帯にこもるのに対して、この「たこつぼ」は危険地帯まで突っ込んでしまいかねない、あるいは突っ込んでしまった状況ととらえたい」

「こもる」=「たこつぼ」には二つの面があるといっている。つまり「たこつぼ」の「たこつぼ」と「たこつぼ」の「胎内感覚」という。

コンセプト7の「胎内感覚」には、「「いごこちのよさ」がヒットする」の見出しがつしている。

これはわかりやすいだろう。「胎内感覚とは、このように、ぬくいところにこもる気持ちのいい感覚を言う」

「子供の節目ごとにある成長過程のテーマをアイマイにし」といっているのが、面白い。

ようするに、若者の「モラトリアム」から、「たこつぼ」と「胎内感覚」が説き起こされているのだな。

小さな子供は、好きなことだけに夢中になり、ほかのものは受け付けない。いったん好きになると、それだけに執着する。好きと嫌いをわけ、嫌いは仲間はずれにするなど。たいがいは、大人になる過程で、より広い外界を受け入れられるようになる。ところが、うまく受け入れられずに「こもる」傾向が増大した。そんな状況を想像すればよいか。社会の中に、そういう傾向がマーケティング対象になるほど増えたのが、80年代前半だった。

が、しかし、この7「コンセプトノート」を読むと、「たこつぼ」はこれだけではすまないようだし、こちらのほうが今的「たこつぼ」な感じがする。

コンセプト6は「知的」で、「経済的豊かさを得た大衆」だ。このころから「知的」がエラそうになったり、憧れになったりしたのですなあ。

ここでは、「知的」とは対照的な状況が述べられている。

「言葉による論理派閥ではなく、感性派閥が台頭して来た。ある感性の調子(トーン)を持ったグループには、その波長があわなければ準拠集団として参加させてくれない状況がある。即ち感性が合わないと話が全く合わないということになり」

このほうは、いまどきの「たこつぼ」にピッタシな感じがある。

そういう傾向に対して、「論理をたて規範をつくることに努力する層も間違いなく存在する」ということで、「知的」があげられているのだが、これはどうだろう。著者が自分たちのことをさしてもいるようで、同じ「たこつぼ」のタコという感じがある。

とにかく、これも「たこつぼ」化の流れとみることができる。

それから、コンセプト1は「頂点」(いただき)で、「ひとなみ」を超えようとする人たちは、「たこつぼ」化を誘発する最も基本的な要因としてみることができそうだ。

「我々の広告の仕事では、この「頂点」コンセプトは重要な概念である」と言っている。これはもう、生活者レベルというより、明治以来、国家レベルで国民に強要し続けてきたコンセプトともいえる。

「人々における価値観が多元化しているため、欲求が多様化し、「頂点」の数が多くなったこと。そして新しい「頂点」がいろいろ出て来たということが挙げられる」「しかも、多くなった分だけ、「頂点」は低くなり」「手の届く範囲になったということも重要なポイントとしていえるだろう」

こうして、時代に応じた新しい「頂点」がつくられ、その周辺に新しい「たこつぼ」ができてきた。

おれが「単品グルメ」とよぶあたりもそうだし、「本好き」などの「たこつぼ」もずいぶん細分化され、それぞれ「頂点」らしき人たちがいる。そういう「頂点」をめざす人たちも、あとをたたないようだ。

ふりかえってみると、1980年代は、まだ「たこつぼ」以外の海が広かった。それでも、「たこつぼ」ばかりの影響ではないが、「閉塞感」が漂い始めていた。

いまでは、広いはずの海は、どんどん「たこつぼ」で埋まっていくようで、おれなどは、それが強い閉塞感となっている。

広い海をとりもどせるのだろうか。小さな「たこつぼ」の中の「自由」や「頂点」に満足しているのだろうか。世界は広いのになあ。

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