作品と商品のあいだとフリーライター。
今月29日の「理解フノートーク」は、「フリーライターってなんだ」というお題でやるのだが、四月と十月文庫『理解フノー』には、「フリーライター」というタイトルの一文が載っている。
「「成り行きで転がったついでに「フリーライター」という肩書を使い、出版業界なるものに付き合ってみてわかったことは、一見知的な、この業界は、これまで付き合ったなかでも、最も理解フノーな前近代的な体質の世界ということだった。「好き」や「憧れ」でやっている人たちが多いせいだろうか」「そういう世間で、どうやら「フリーライター」というのは最下層の労働者という感じなのだが、それもあって、私はこの肩書が気に入っている」などなど書いている。
近頃は情報社会であるからして、出版業界に属してない飲食店の方でも、「フリーライター」という肩書で察しがつくようで、名刺の肩書を見て、「ああ、フリーライターね」という感じなのがありがたい。
ただ、新聞や雑誌の取材で行くときは、肩書の上に、その新聞や雑誌の権威がのってしまうのが困りものなのだが。
だいたい「フリーライター」というのは、どこの馬の骨、どこの鼠の骨という感じで、最下層というのは、どの世界でも見下され軽んじられるのだが、馬鹿にされる立場だからこその自由や、見えることがある。人は、目下のものに油断しやすい。
新聞や雑誌などでは、「フリーライター」の肩書をそのまま紙誌面に載せられることが少ない。「フリーライター」よりキャッチーで、なにやらイメージがよいらしい権威めいた肩書になる。そのあたりは、それぞれの媒体の編集の事情もあるだろうから、まかせている。すると「大衆食堂の詩人」や「著述家」といった肩書になる。
「フリーライター」だと「ホームレス」な感じだが、「大衆食堂の詩人」や「著述家」だと「家」をかまえている職業のある「社会人」という感じになる、のかもしれない。
先日の毎日新聞「昨日読んだ文庫」では、肩書まで自分で書いて既定の原稿量におさめることになっていたので、「フリーライター」を使って、新聞にはそのまま載った。
あらためて考えると、「フリーライター」という肩書には、アメ横の魚草の店主がいう「忸怩と矜持」がこもっていて、よい。
話はそれるが、「昨日読んだ文庫」をご覧になった知らない方からメールをいただいた。『料理の四面体』は、いい本を紹介してくれた、読んで目からうろこだった、という趣旨だった。もう一通、これは知っている方から、同じような内容の手紙をいただいた。単純に、うれしかった。ありがとうございました。
フリーライターというのは、「「作品」ではなく「商品」を書くことを主な仕事にしている人」という定義はないが、「作家性を問われないものを書くことを主な仕事にしている人」という「機能分担」は、なんとなくあるようだ。
ということは、やはり、「「商品」を書くことを主な仕事にしている人」でもよいようだが、機能分担の実際は、いま書いていられないが、そうは単純ではない。
元来、「機能」に上下はないはずなのだが、前近代的体質であるがゆえの、さまざまな格付けが機能する。
肩書に「家」がつくとエラそうだ。「作家クラスのカメラマン」という言葉が使われたりする。ま、「カメラマン」ではなく「写真家」である人のことだ。そういう言葉を使って話している出版業界人の話を聞きながら、「フリーライター」にも、「作家クラス」と、そうではない「家」がないホームレスクラスがあるのだろうかと思ったことがある。
少し前だが、エンテツさんて作家クラスの文章を書く方なんですね、といわれたことがある。ある文章を褒めてくれてのことだったが、おれって、「作家クラス」なのかなあと思ったりした。
「ワタクシ最底辺のフリーライターです」とケンソンしながら、作家クラスの文章を書くなんて、悪戯として面白そうだ。しかし、いつも同じように書いているので、どこが「作家クラス」なのかわからない。
世の中、理解フノーなことがあるのだ。
「作家性」について、あまり考えたことはないが、「なるほど」と思うことはあった。速水健朗さんの『ラーメンと愛国』(講談社現代新書)に、こう書いてあった。
「片岡義男は、アメリカ由来の消費社会における文化や風俗が、日本に輸入されることで日本的なものと奇妙に交わり変化する感覚をスケッチし続ける。そこに彼の作家性がある。」
なるほど、だ。
先月14日に書いたブログ「有効微生物群(EM)の初期の資料。」が、今月に入ってからツイッターなどで拡散し、300以上のPVになった。
その中で「はてブ」についたコメントが愉快で笑った。
「中々貴重な資料で興味深いがまさかエンテツさんからこーゆー話題が出てくるとは思わなかった。てかエンテツさんて農業生産法人の設立なんて仕事をやっていた時期があるのか(大衆食堂評論家だと思っていた)norton3rdnorton3rdのコメント」
http://b.hatena.ne.jp/entry/enmeshi.way-nifty.com/meshi/2017/08/post-3440.html
フリーライターは、いろいろに見られるのだ。
とにかく、おれは売れない本ばかり書いているのだから、これは「商品」として成功してないのは確かだ。「作品」を書いたつもりはなく、売れる「商品」を書いたつもりだったが。
ある人が、編集者やライターが売れること売ることを考えるようになったらオシマイだ、売り上げは営業が考え、それと揉み合いながら成り立つようでなければ、いいものはできないよ、といった。おれは、「いいもの」ってナンダロウと思った。
そういえば、いまは引退した、大手出版社で鳴らした高名な編集者が、「いい本というのは売れる本のことだ」といった。たしか、おれが「いい本というのはどういうものか」と質問したときだったと思う。
話のゆくえがわからなくなったので、このへんでオシマイ。
当ブログ関連。
2017/09/10
今月29日は理解フノートーク。
2017/09/19
毎日新聞「昨日読んだ文庫」。
2017/08/14
有効微生物群(EM)の初期の資料。
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