系譜論のオベンキョウ、『美味しんぼ』。
料理や飲み食いの本はたくさんあって、まとめてなんと呼べばよいか、「食エッセイ」とか「グルメ本」とかいうことになるか。とりあえず「お店ガイド」のたぐいをのぞき、それに栄養や健康が主なものは含めないでおきたいので、「食文化エッセイ」あたりが妥当かもしれない。どのみちハッキリ区別がつかないことだから、ここでは「飲み食い本」ということにしておこう。
そういう類の本は、とくに1980年代からこちら「バブル」といってよいほど出版され、90年代の不況後は、売りやすい売れるアイテムとして、どんどんつくられ、そのぶん参入もしやすく敷居は下がり、ありていにいえばレベルは下がり、おれのようなものでもほんの少しだが、本を出すまでになった。
そういう分野で、もっとも多いのが、「うまいもの話」と「珍しいもの話」で、これはもう昔から美味珍味を追求する「食通」という人たちがガンバってきた分野で、どこそこのナニナニはうまい、ナニナニはどこそこにかぎる、どこそこにはこんなにめずらしいものがある、といったたぐいだ。
ドコソコとナニナニ、そこに「名人話」「職人仕事話」が加わり、人気な分野なもんだから、たくさんの本が出ている。
ほんと、そういう話が好きな人が多い。
これらの本は、惰性的につくられてきて、「食文化」という学問分野も確立してないこともあって、人気な売れた本が影響力を持ち、それらを「お手本」に新たな著者が自分なりの「視点」や「切り口」で参入する状態が続いている。
その「お手本」というのは、ほとんど、といってよいほど、系譜論からの見方なのだ。
ようするに系譜論が好きな人が多いのだ。系譜論を意識していなくても、素材、本物、手仕事技(人物)、郷土(ドコソコ)、ルーツや系図などなど、系譜論に属する話が好まれる。
その系譜論を具体的に見ていきたいと思うのだが、そのために、まず2冊の本がよいだろう。かなりの影響を及ぼしている本で、ひとつは『美味しんぼ』で、ひとつは吉田健一の『私の食物誌』だ。
不勉強なので、この2冊に対する批評や批判的検討については、あまりしらない。
『美味しんぼ』については、関川夏央が『知識的大衆諸君、これもマンガだ』(文藝春秋、1991年1月)で、「浪費される言葉、空転する工夫 雁屋哲・花咲アキラ『美味しんぼ』」という一項を設けている。
この本は、『諸君!』に1988年1月号から連載のものを母型に手を加えたものだそうだが、『美味しんぼ』の項は、1989年5月が初出で、関川が読んだのは18巻までだ。
「比較的抵抗なく読みおおせたが、ところどころでひっかかった。全篇が、料理材料収集の苦心、料理の工夫と味の形容でほぼ埋め尽くされ、自然素材の礼讃およびマスセールスを動機とする促成大量生産、化学調味料などの使用への嫌悪、というより告発が要所要所のアクセントになっている」
この漫画は「究極」と「至高」のメニューをめぐって、北大路魯山人をモデルにした父と、父をにくむ息子が対決するカタチをとっている。
「読むのにさしたる抵抗のない理由は、ほとんどすべてこの父子対立構図の安定感によっている。また、長く読むうちやがて退屈を誘うのは、グルメを制するにグルメをもってするというやり口のせいである。作者には「エセのグルメ」を「ホンモノのグルメ」が完膚なきまでに打ち砕いて正統を樹てるもくろみがあるのだろうが、料理ごときエセもホンモノもどうでもいいという考えのしみこんだやからには、両者に正邪も曲直もない、ただいたずらな時間と金の浪費のように見えないこともない」
関川は、かつて『水のように笑う』で、「パチンコ屋で出る台をひとに教えられる程度の技術を誇る人間は結局なにものにもなれない」と、グルメ・ブームをリードするたぐいの人たちにかましたが、ここでも関川らしいアイロニーをちりばめている。
「ストーリーテラーの味の形容に対する過剰なこだわりに較べて、このマンガでは絵画上の工夫や冒険はまったく見られない。いかに素材や料理をそれらしく見せるかのみに作画担当者は執心する。すなわちナニガナニシテコウナッタという情報マンガの分を守っている。分を守っているからこそ安定しているのだが、守りすぎているから「うまみ」も「こく」もない」
「自然食品をうんぬんしても、そのコストについては語らず、結局は社会が悪い、悪い社会はどうしようもないから財力を貯えて自然食品を買い続けるという態度は、少なくとも流通不安を呼ばない。この作品もまた八〇年代の明朗なニヒリズムの産物に違いなく、ニヒリズムを雑知識で武装して足れりとする傾きは、現代の日本社会をみごとに体現しているといえる」
関川夏央の引用が長くなった。おれは、マンガの批評ではなく、このマンガに系譜論を見ようとしているのだが、s関川が指摘している、「自然素材の礼讃」や「エセのグルメ」と「ホンモノのグルメ」、「ナニガナニシテコウナッタ」のことは、系譜論と大いに関係があるのだ。
梅棹忠夫『文明の生態史観』(中公文庫)が指摘する系譜論というのは、「素材の由来の問題」であり、ナニガナニシテコウナッタの「要素の系図」や「血統」の問題として文化をとりあげることだ。
系譜論と異なる機能論的な見方では、「素材の由来の問題とは全然関係がない」「それぞれの文化要素が、どのようにくみあわさり、どのようにはたらいているか、ということである」。これは玉村豊男の『料理の四面体』では、料理の構造ということになる。
実際を成り立たせている文化の構造と機能にはふれないまま、自然素材を礼賛し、それを「生かす」仕事を礼賛し、ニセモノとホンモノの違いは、素材の優劣と、それを生かす仕事になるという、無限循環のような話が、『美味しんぼ』では繰り返される。そのパターンが、関川のいう「安定」のもとになっている。
卵の黄身の味噌漬けをつくるのに、味噌の大豆の品種から選び(ドコソコのナニナニ)、もちろん「決定的なのは卵なのだ」。その「初卵」を手に入れるのに、どうするか。「鶏を飼っている人間が、一羽一羽をずっと注意深く見守っていなければ出来ない」
構造や機能を考えない脳は、方法を掘り下げられない、仕事への「態度」や「心」の持ち方が問題になる。完璧な仕事、愛情、丁寧、折り目の正しさ、すべて、最終的に「人」の問題に還元されるのだが、そもそもそこまでして「究極」や「至高」を求めなくてはならないのか。
そこによこたわる不合理や不条理は、追究されることなく、またもや、「本物」に還る。
「料理の技法を云々する以前に、どれだけ本物の材料を求めることが出来るか、それを極限まで追究していって得た物を、後世の者に残し伝えることこそが、「究極のメニュー」なり、「至高のメニュー」なりを作る目的であるはずだ!」と、魯山人をモデルとする人物は、正論風のハッタリをかます。
このあと、「本質を追究せず」「人の心を感動させることは出来ぬ」「人の心を感動させるのは唯一、人の心をもってのみ出来ることなのだ」。もうこうなると料理や飲み食いの話ではなく、道徳や精神のことへと飛躍している。
こういう話が繰り返されると、あたかも、このマンガは「本質を追究」しているようだし、「人の心」を持っているかのようにみえてくる。それほど本気にせず、テキトウに楽しんで読んでいるつもりでも、気がつけば系譜論にとらわれ、ほかの視点について考えなくなる。そもそも「人の心」を持っているはずのものが、人に対してこのように居丈高になっていいものか、と考えることもしなくなる。
なにより、作者がその位置にいるようにみえる。たいがい、系譜論で文化を語る人は、自分は「わかっている人」つまり文化の系譜の上位に位置している、文化的に「上」のクラスという思い込みのようなものがみられる。
系譜論を全面的に否定する必要はないし、歴史をたどる手掛かりにはなるが、系譜論で文化をとらえている人には、ある種の独善が多く見られ、そこがやっかいなのだ。とくに日本のばあいは、儒教的な善悪、上下、長幼などの序列、ま、封建思想ってやつがうだうだとぐろをまいているので、やっかいだ。
書くのがメンドウになったので、ここまで。
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2017/09/19
毎日新聞「昨日読んだ文庫」。
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