「書評のメルマガ」の『料理の四面体』。
最近、『料理の四面体』を中公文庫で読み直した。チョイと仕事の関係もあったのだが、ときどき読み返している本だ。
この本のことは、『大衆めし 激動の戦後史』でも紙面をさいているし、以前「書評のメルマガ」で連載した「食の本つまみぐい」の35回目・最終回が、この本だった。
そこには、「連載を始めるときに、最初は江原恵さんの『庖丁文化論』で、最後は本書で締めくくろうと決めていた」と書いている。ま、おれにとって、この2冊は「別格」の価値ある食文化本なのだ。
ついでに、「書評のメルマガ」の最初から、読み返した。このころは「書評」の方法など知らずに書いている。いまでも知らないのだが。「書評」としてはお粗末も多いが、でも、まあ、本のセレクトは、いい。とにかく、いま読んでもおもしろい。
それに、だんだん「書評」らしくなっている。35回やるうちに、少しは「書評」なるものを考えるようになったのだろうか。そういう記憶はないが。
『料理の四面体』は、「書評のメルマガ09年12月11日発行」の掲載だ。あれから、15年以上がすぎている。しかし、この内容に衰えはない。と、おれはおもっている。
このあいだ、ある原稿のために、昭和初期の食に関する本や雑誌の記事を、けっこう読んだ。その内容は、ほとんど陳腐化していても、さまざまな事象についての著述が部分的に役に立つばあいがある。それだけだ。
「書いたものは残る」というが、そうは単純ではない。
「陳腐化」しているものは、その著述が行われた当時から「陳腐」なのだ。安直に、売りやすい、売れるものとして、出版されたのだろう。それが、どんなにかっこうつけて、いまこれを世に問う意味は、テナ能書きが書いてあって、かつ売れたものでも、みえみえなのだ。
昭和の初めは、いまのように飲食本は人気で、というか、この頃が大衆的な飲食本の第一次ブームといえそうなのだが。ブームというのは、安直に走りやすい。
ま、人間のすることの過去は、恥だらけなのだな。いいではないか、人間なんだから。ただ、物書きぐらいで、本を出したぐらいで、エラそうにするから、陳腐さが増幅する。昔は、本を出すのが容易でなかったにせよ、物書きがエラそうにしたらダメですね。いまじゃ、メディア過剰供給時代で、物書きなんて工業社会時代の工場労働者とかわりないのに、エリートのようにエラそうにしているやつが少なくない。
おれは、その著者の必要な著書だけでなく、その当時ほかにどんなものを書いているかも調べ、できうるかぎり読んでいる。すると、その著者が、どういう考えでそれを書いたか、また出版社は、どういう考えで刊行したか、かなり見えてくる。
当時の売れた「ベストセラー作家」で、いま流の言い方では「メジャー」であるが、いまでは名前すら知られていない「作家」は、めずらしくない。こういう人たちの作品を集めてみるのもおもしろいとおもったが、いまだっておなじようなものがあふれている。ま、ニンゲンのやることは、たいして変わっていない。
しかし、ごくまれに、いまでも新鮮な内容のものがある。「鮮度」がいいのだ。
『料理の四面体』は、そういうものとして、残るとおもう。
この本の、これまでの「生き残り方」も、単純ではなかった。その紆余曲折をみると、現代の、にぎやかな飲食関係の出版の「ヤミ」を見るような気もする。
とにかく、1980年に単行本で出た本が、文庫で残っていてよかった。おれの本は絶版続きで、紆余曲折転落状態だが、自分のことのようにうれしい。
ってことで、 玉村豊男『料理の四面体』、書評のメルマガ09年12月11日発行■食の本つまみぐい「(35・最終回)ごまんとある料理の本を無用にする一冊 」は、こちら「ザ大衆食」のサイトでご覧いただけます。
http://entetsu.c.ooco.jp/siryo/syohyou_mailmaga436.htm
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