ツナサンド。
うちにいて一人でツナサンドを作って食べることが、月に最低1,2度、多いと3度はある。
ツナ缶は、いつも3個パックの薄い缶のやつを買い置きしてある。食パンもたいがいある。
軽くあぶった食パンにツナをはさんで食べるだけだ。二枚の食パンに缶一個分を盛り分けて、二つに折って食べる。ツナ以外は、何もつけない足さない。
それだけのやつだ。
これをやるときは、必ず、村上春樹訳の『CARVER'S DOZEN レイモンド・カーヴァー傑作選』(中公文庫)の、「サマー・スティルヘッド(夏にじます)」を思いだしている。
先に「サマー・スティルヘッド(夏にじます)」を思いだし、ツナサンドが食べたくなって作ることもある。
切り離せない関係なのだ。
かといって、そこに、ツナサンドのうまそうな場面があるわけではない。
朝、台所で両親が言い争う声がする。少年(僕)はベッドの中でその声を聞き、弟と喧嘩し、学校をズル休みすることにする。弟が学校へ行き、両親が仕事に出かけると、一人になる。見たいわけでもないテレビを見ながらマスターベーションをきめたのちテレビは消し、何度か読んでいる本の一章を読み、それから両親のベッドルームへ行って、コンドームがないかと丹念に探し、コンドームは見つからないがワセリンを見つけ何にどう使うのか想像してもわからず、などのあと、近くの川へ釣りに行くことにする。
そこで、「ツナのサンドイッチを二つ作り、三段重ねのピーナッツバター・クラッカーをいくつか作った」そして「家を出る前に僕はサンドイッチを一個を食べ、ミルクを飲んだ」
ツナサンドが出てくるのは、それだけだ。
うまそうな話なんかひとつもない。家庭も景色も、うまそうな雰囲気はひとつもない。
それなのに、このツナサンドを時々思いだす。
なぜなんだろうと考え、わからないのだが、そういうことがあるのは確かだから、食べ物のことを詳しく書いてなくても、その食べ物にひかれることがあるのではないかとおもう。そこが、気になるのだ。
前にもこのブログに、同じ本に収録されている「ささやかだけれど、役に立つこと」について書き、そこで、村上春樹さんの解説から引用している。
"カーヴァーの小説には何かを食べる情景がよく出てくる。『でぶ』もそう、『大聖堂』もそうだ。そこでは人々は決しておいしそうなもの、上等なものを食べているわけではないのだが、それでも読んでいると自分も同じものを食べてみたいなという気持ちになってくるから不思議だ。僕は想像するのだけれど、カーヴァー自身食べることが大好きだったのではないか? それもたぶん日々の普通の食事を、普通に食べることが大好きだったのだろう。彼の小説はそのようないくつかの「スモール、グッド・シングズ」に励まされて成立しているように、僕には見える。"
村上春樹さんも「不思議」なんだ。
ツナサンドと一緒にこのことを思いだし、こんなふうに書けるようになりたいものだ、と、ツナサンドをガブッとかじる。飲み物は、ミルクではなく、ビールか、何かで割った焼酎だ。
そのあとは忘れて、そうなる努力などはしない。そしてまた思いだす。ツナサンドを作って食べる。その繰り返しだが、このツナサンドがうまい。買ってきたツナサンドでは、こうはいかない。
当ブログ関連
2007/05/31
「ささやかだけれど、役に立つこと」
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