ストーリー(物語)の消費。
いまのように情報がスピーディーに流れていく中では、そのスピードにのった言説や言葉が脚光をあびやすい。それらはたいがい、「鋭い」とか「エッジがきいた」と評価される傾向にある。スピードにのって鋭くエッジをきかせた言葉をはき、すぐ別の話題に移る。
野暮は、そういう食い散らかされた情報のあとをノンビリ眺めていく。そこに野暮の自尊心がある。
なんてことはどーでもよいのだが、一年半ほど前になるか、「ku:nel(クウネル)」のリニューアルのときは、ツイッターでも大騒ぎだった。
リニューアル後のアマゾンのレヴュー欄も、リニューアルされた「クウネル」に対し、なかなか鋭いエッジのきいた文化の香り高い批判というのか批評というのか、そういうものが目立った。
おれのような野暮にとっては、高尚すぎてついていけない話も多く、だいたい、あのあたりの人たちは、普通の労働者庶民とはちがうのだな、という感想がせいぜいだった。
とはいえ、旧クウネルは、労働者庶民の暮らしも視野に入っていたとおもう。しかし、これは野暮の感想にすぎないのだが、「クウネル」のリニューアルを嘆き悲しみ、リニューアル後を酷評した人たちは、労働者庶民の暮らしより、もっと「高度」な文化的なナニカを大切にしたかったのではないかとおもえた。ようするに、リニューアルも、それを嘆き悲しんで騒いだ人たちも、労働者庶民の暮らしなど関係ない、鋭いエッジのきいた見識と意識の持ち主だったのだ。野暮などが口をはさめる余地はなかった。
いまごろになって、この話を持ち出すのは、ずっと「ストーリー(物語)の消費」が気になっていたからだ。「クウネル」のリニューアル騒動のときには、このことについてふれている人は、あるいはいたかもしれないが、いたとしてもごく少数で、おれにはほとんどいなかったようにみえた。
「クウネル」は、表紙に「ストーリーのあるモノと暮らし」という惹句を掲げていた。
これはとても新鮮な印象だったけど、「ストーリーの消費」が、マーケティング業界あたりで話題になりはじめたのは、1990年ごろからだった。
モノの消費からストーリーの消費がいわれ、それが高度消費社会=成熟社会の姿であると、マーケティングリーダーたちが唱えはじめたのだ。
それはもっと生々しい言い方では、「アート」や「文化」もカネになる、という風でもあった。
当時の、セゾングループなどが、その先進だった。
博報堂トレンド研究会著の『コンセプトノート1991』(PHP、1991年)には、「アートの消費、ストーリーの消費」という項がある。
そこでは「「文化」が「モノ」に変換されている「アートの消費」と、「モノ」が「文化」に変換されている「ストーリーの消費」」についてまとめられている。
「一般の商品が「文化」の衣裳をまとって現れてきているのが、「ストーリー」の消費である」
「「文化」を取り込んだ、それなりのストーリーやシナリオを持ち、しかもそれをうまく演出している商品がヒットしている。人々は商品だけでなく、その文化ストーリーを消費し、共感しているのだ」
というわけで、当時より近年ますます、「いい話」「いい物語」を求めて、この手の「ストーリー」が本や雑誌などさまざまなメディアにハンランしている。
これらは、商業主義のマーケティングの結果であるのだが、アート的文化的に優れていると、なぜか商業主義ともマーケティングとも無縁の「作品」とみなされ「商品」とみなされない。商品として取り引きされているにもかかわらず。
なんだか認識の妙な歪みを感じるのだが、「クウネル」のリニューアル騒動のときには、その歪みが噴出したように見えた。
まったく関係ないことだが、ツイッターをチラッとのぞいたら、「男も女も「どんな仕事をしているか」でしか自尊心を持てない社会で子どもが減るのは当然ラジよね」というツイートがあった。なかなか鋭い。
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