必要とされてないこと、必要なこと。
きのうのブログを書いて、『CARVER'S DOZEN レイモンド・カーヴァー傑作選』にある「ささやかだけれど、役に立つこと」を読みかえした。
すると、必要とされてないことに、どんなに力をそそいでいるかを、考えることになった。その一方で、「ささやかだけれど、役に立つこと」が、捨てられたり忘れられたりしている。
飲食の関係では、とくに多いような気がする。
必要な食生活の知識や商品知識より、いいもの話やうまいもの話ばかりが話題になり、ところが、何か食品が原因のジケンがあると、右往左往大騒ぎする。
情報は多いが、情報を咀嚼する力がない。どこそこのナニナニがよい、となったら、それ一辺倒だ。その逆に、悪いとなったら、とことん忌避する。
そういう話しにふりまわされるのはもちろん、そういう話がベースになった日常というのは、「情報社会」だからといわれるのだけど、それはいかにも情報を発信して商売にしているメディア側などのご都合主義の言い分で、平常を欠いているのではないか。
だいたい、メディア側にしても、全体や将来を見渡して、いまこういうことが必要とされているという判断などは、ほとんどしてない。とにかく、まず、毎月あるいは毎日、何かを作って売らなくてはならないから出発している。そして、受けのよいテーマや内容や表現に飛びつく。売れると、それが必要とされていることになってしまう。
ま、おれもそういう尻馬に乗った仕事をしているな、と、ときどき感じることもある。
知らなくてもよい、いいもの話やうまいもの話がバブルのようにハンランしている状態は、好ましいものではないとおもう。
とくに日々の暮らしの「ささやかだけれど、役に立つこと」を、もっと大事にしたいね、とおもうのだった。
そういう意味では、スペクテイター40号「カレー・カルチャー」は、いい仕事をしている。いいもの話やうまいもの話ではない、それでいて、売れ行きの出だし好調のようだ。
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