どこにでもあるどこかになる前に。
いま、おもしろくて注目しているのが、里山社のWEBサイトで藤井聡子さんが連載中の「どこにでもあるどこかになる前に。~富山見聞逡巡記~」だ。
http://satoyamasha.com/series/dokodoko-toyama/01-blue-hawaii
サイトには「東京で自分探しを終え、「遠きにありて想うもの」だった故郷・富山に戻った著者」という紹介がある。
何者かになりたくて、富山を離れ大阪の大学を出て、東京で働いていたが、「都落ち」したのだ。
読んでいるうちに、あれっ、この人とは以前に会っているなと思い出した。
そう、たしか、初めて会ったとき、富山へ帰る話をしていた。
そうそう、あれは、東急田園都市線駒沢大学の環七沿いにあるバーだった。いま里山社をやっている清田麻衣子さんと彼女は一緒に来たのだった。そうに違いない。
おもしろい人だった。あれからメールもいただいたような記憶もあるが、おれはモノグサだから返事もせずにそのままになってしまったようだ。
とにかく、この連載は、おれ好みのテーマでもあり視点でもあるから、たのしみなのだ。
知り合いに、やはり「都落ち」した女がいる。もう一昨年の春になるかな、故郷に帰ったのは。大学卒業して一年間は、なんとかやっていたが、ついに帰ってしまった。その年の秋、ついでがあって彼女の故郷で会う機会があった。
東京で生きる難儀、地方で生きる難儀、東京で生きるということ、地方で生きるということ。そこに、「女」であることが重なる。
何者かになろうとするなら、東京でもない地方でもない業界と市場に馴染みながら生きなくてはならない。それは、「どこにでもあるどこかになる」ことでもあるだろう。藤井さんは、そうではなかったから、いま彼女だから書ける「どこにでもあるどこかになる前に」を書けるのだと思う。
おれはいつも「何者かになろうとする必要はないんじゃないの」と言うだけだ。そのように生きている人たちのほうが多いはずなのだ。
とくに1990年ごろからこちら、普通ではイケナイ何者かにならなくてはイケナイ、仕事で自己実現を、みたいなことが強迫観念のように横行しているわけだけど、生きることや仕事には、もっと別の「動機」があるはずだし、あってもよいはずなのだ。詐欺師的人生なんか、なかなかおもしろいしね。
しかし、里山社、いい仕事をしている。女一人大地に立つ、という感じがある。
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