牛肉の位(くらい)。
ヨーシ、今日はフンパツして牛肉のしゃぶしゃぶをやろうと思って、おれが毎日のように利用するスーパーへ行っても、しゃぶしゃぶ用の牛肉は売ってない。豚肉は、国産もアメリカ産もタップリある。
そのスーパーはうちから、駅へ行くのと逆方向にある。駅から歩くと20分近くかかるだろう。駅の近くには、二つのスーパーがあって、ここには、しゃぶしゃぶ用の牛肉もある。
スーパーは産業道路と生活道路が交差するあたりにあって、近くに中規模の団地が一つと小規模の団地が2、3あり、周囲は近年たくさんあった空き地がなくなるほど新しい住宅が建っている。新しい住宅は、30坪もあれば大きいほうで、たいがい子持ちの家庭だ。
関西はともかく、関東では牛肉の位が圧倒的に高い。関東というより東日本になるだろうか、よく調べたことがないので正確にはわからないが、とにかく牛肉が食べられたら「中ぐらいの生活」だ。という感覚や意識は、わりと広くあったのではないか。牛肉は中から上の生活の象徴でもあった。
もちろん、その牛肉は、牛丼の牛肉は含まれない。もっとも近頃は安かった牛すじが人気で高くなった。
そのスーパーには、いつもアメリカ産牛カルビが大量に陳列されている。これが牛肉のなかでも安い部類になるだろう。それより少し高めで、アメリカ産ステーキ牛があるが、薄切りより少し厚いていどで、しょうが焼き用豚肉と同じぐらいの厚さだ。
その上の牛肉はグンと高くなる。ほんのわずかしか置いてないが、買ったことがない。
これは、2017/10/11「分断と財政と信頼。「ギリギリ中間層」と善意。」に書いた、「自分はギリギリ中間層で踏みとどまっていると信じたい」と関係するのではないかと考えた。
おれは、なんとか、たまに、牛肉を食べることで、「自分はギリギリ中間層で踏みとどまっていると信じたい」のかもしれない。だいたい、おれにとっては豚肉の方がうまいのだから。
「中間層」なんて興味はないが、肉売場の牛肉と豚肉の格差は、目に入る。「ギリギリ中間層」意識は、アメリカ産牛肉のおかげで保たれているということになりそうだ。
たとえそうだとしても、お客はみな、真剣に、楽しそうに、買い物をしている。
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