「ネト●●」
おれは、2001年にいわゆるホームページでインターネットに参入し、つぎにブログを始め、2011年になってからツイッターとフェイスブックを始めた。
しばらくツイッターに集中し、そのことはあまり関係ないかもしれないが、ブログがおろそかになった感じもある。
実際は、トシのせいで、酒を飲んだり疲れたりするとスマホなどはなくパソコンのみの関係もあり、インターネットと向き合う体力も気力も低下し、だんだん、どれもほったらかしが増えたにすぎない。
バカとハサミは使いよう、という、バカとハサミをバカにしたような言葉があるが、インターネットの使いようは、なかなか難しい。
とくにツイッターが難しいように思うのは、これもトシのせいかも知れないが、スピードがものをいうからだ。のんびりやっていられない。
スピードがものをいうから、スピードにのって、おかしなぐあいになる人を、よく見かける。ツイッターで、その変わりようを見ていると、おそろしくもある。あのひとがね~。まったく変わらないおそろしさもあるが。
ツイッターは、自分が可愛い人や自己愛の強い人は、とてもキケンのように思える。自己の増殖と正当化で、どんどん変わっていく。自分からツイートしなくても、リツイートやいいねで、どんどん変わる。ツイッターというのは、考えをよくあたためて反応するものではないからだろう。
ひごろ自分のなかにある、十分考えられたことではないこと、ま、宇宙のチリていどの脳ミソのチリが、誰かのツイートに反応してしまうことが少なくない。それがツイッターのスピードにのって、どんどん増殖するのだ。
「ネト●●」という言葉があるが、それは「ウヨ」や「サヨ」などにかぎらない。普通に、たぶんワタシは冷静よ、と思っているような人が、アンガイどんどん変わっていく。
いや~、なんですか。そんなに心地よいのですか。
ウヨもサヨも含め、ようするに共有や共鳴のうちに自分の感覚に酔ってしまう。これを「ネト●●」とよびたいのだが、「ネトボケ」ていどの言葉しか浮かばない。
商売のためなら別だが、ツイッターもフェイスブックも真剣にやるものではない。野心や下ごころのある連中のツイートなど面白くでもないし、なんにつけ、ツイッターで親近感、えーと、なんていったかな。そう、シンパシーを感じるなんて、とんでもないことだ。
ツイッターには、ときどきフェイスブックを毛嫌いするツイートが見られた。すると、リツイートやいいねがある。そこで、なんだか自分たちは、「正しい」か「まっとう」か「正常」か「賢い」か、なんだかわからないがフェイスブックやフェイスブックをやっている人たちを見下す感じになる。
表現を仕事にしているような人が、そういうツイートをしているのを見ると、この人、大丈夫かと思うこともあった。
どんなことであれ、「見下す」ことにつながるのは、かなりキケンだと思うが、ツイッターではよく見かけるし、この傾向にはまりやすい。
自己陶酔や「思い上がり」と「冷笑」が、激しく交差しながら、あやしいニューロンがつながりあい、刻々と変化する。スピードがあると、自分の変化にも気づかない。そして気づいたときには…。
もうそういうのを眺めているのも、あきた。
インターネットは、なんだろうと、たかだか道具にすぎないのに、それに考えや気持まで支配される。それは言葉の持つ危険性でもあるだろう。
言葉とスピードのコントロール。
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