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2017/11/27

「ネト●●」

おれは、2001年にいわゆるホームページでインターネットに参入し、つぎにブログを始め、2011年になってからツイッターとフェイスブックを始めた。

しばらくツイッターに集中し、そのことはあまり関係ないかもしれないが、ブログがおろそかになった感じもある。

実際は、トシのせいで、酒を飲んだり疲れたりするとスマホなどはなくパソコンのみの関係もあり、インターネットと向き合う体力も気力も低下し、だんだん、どれもほったらかしが増えたにすぎない。

バカとハサミは使いよう、という、バカとハサミをバカにしたような言葉があるが、インターネットの使いようは、なかなか難しい。

とくにツイッターが難しいように思うのは、これもトシのせいかも知れないが、スピードがものをいうからだ。のんびりやっていられない。

スピードがものをいうから、スピードにのって、おかしなぐあいになる人を、よく見かける。ツイッターで、その変わりようを見ていると、おそろしくもある。あのひとがね~。まったく変わらないおそろしさもあるが。

ツイッターは、自分が可愛い人や自己愛の強い人は、とてもキケンのように思える。自己の増殖と正当化で、どんどん変わっていく。自分からツイートしなくても、リツイートやいいねで、どんどん変わる。ツイッターというのは、考えをよくあたためて反応するものではないからだろう。

ひごろ自分のなかにある、十分考えられたことではないこと、ま、宇宙のチリていどの脳ミソのチリが、誰かのツイートに反応してしまうことが少なくない。それがツイッターのスピードにのって、どんどん増殖するのだ。

「ネト●●」という言葉があるが、それは「ウヨ」や「サヨ」などにかぎらない。普通に、たぶんワタシは冷静よ、と思っているような人が、アンガイどんどん変わっていく。

いや~、なんですか。そんなに心地よいのですか。

ウヨもサヨも含め、ようするに共有や共鳴のうちに自分の感覚に酔ってしまう。これを「ネト●●」とよびたいのだが、「ネトボケ」ていどの言葉しか浮かばない。

商売のためなら別だが、ツイッターもフェイスブックも真剣にやるものではない。野心や下ごころのある連中のツイートなど面白くでもないし、なんにつけ、ツイッターで親近感、えーと、なんていったかな。そう、シンパシーを感じるなんて、とんでもないことだ。

ツイッターには、ときどきフェイスブックを毛嫌いするツイートが見られた。すると、リツイートやいいねがある。そこで、なんだか自分たちは、「正しい」か「まっとう」か「正常」か「賢い」か、なんだかわからないがフェイスブックやフェイスブックをやっている人たちを見下す感じになる。

表現を仕事にしているような人が、そういうツイートをしているのを見ると、この人、大丈夫かと思うこともあった。

どんなことであれ、「見下す」ことにつながるのは、かなりキケンだと思うが、ツイッターではよく見かけるし、この傾向にはまりやすい。

自己陶酔や「思い上がり」と「冷笑」が、激しく交差しながら、あやしいニューロンがつながりあい、刻々と変化する。スピードがあると、自分の変化にも気づかない。そして気づいたときには…。

もうそういうのを眺めているのも、あきた。

インターネットは、なんだろうと、たかだか道具にすぎないのに、それに考えや気持まで支配される。それは言葉の持つ危険性でもあるだろう。

言葉とスピードのコントロール。

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2017/11/25

エッセーというものは、

植草甚一『こんなコラムばかり新聞や雑誌で書いていた』(ちくま文庫)の「こんなしゃれた題名は中田耕治の頭にしか生まれてこないだろう」に書いてあるところによれば。

中田耕治の「「ソウルフル・サーカス」の「はじめに」という前書きでは、自分にむかって、つぎのようなパラドックスを飛ばしている」そうで、それは、このような文だ。

エッセーというものは、とても不思議なものです。それは自分の考えを述べるために書かれるだけではありません。自分の考えをうまく隠すためにも、それ以上ふかく考えないですむためにも書かれるのです。

あるいは、ちがった意味にとらえた低次元のことになるかもしれないが、おれもまったくそのとおりだと思うし、エッセイにかぎらず、「書く」ということが、たいがいそうだと思う。

テーマからして自分に都合のよいように選び、だいたい、ふかく考えたくないことは、はずしている。そのうえで、ふかく十分考えたと自分に言い聞かせながら、自信を持って書き上げる。

だから、ひとが書いたものを読むときは、書かれてないことについても、考えなくてはならない。

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2017/11/22

鬼子母神通りみちくさ市、ノイズとカオスとDIY。

19日の日曜日、今年最後の鬼子母神通りみちくさ市へ行った。たぶん、今年は、トークを含め皆勤だったのではないかな。

みちくさ市のおもしろさは、ノイズの多さだ。これは、別の言い方をすれば、猥雑感の存在だが、おれはそこに自前のDIY精神があるようで、気に入っている。もともと「市」とは、そういうものだったはずだ。

セレクトショップが出前しているような、丁寧に計画された押しつけがましい独特のステキな雰囲気のまちや市など、おれはなんの魅力も感じない。

会場となる雑司ヶ谷のまちも、ざっかけない感じだが、そこにみちくさ市を企画運営するわめぞ一味のDIY精神がうまく機能しているのかも知れない。

ノイズとカオスとDIYのまちは理想だね。みちくさ市を歩きながら、いつも思う。この空気を吸いに、ここに来ている。もちろん、気になる古本があれば買う。

いつものように、13時半から雑司が谷地域文化創造館の第2会議室でトークがあった。これまでの連続講座がおわり、来年の新しい企画がスタートする前、今回は番外編ということになるだろう。

雑司ヶ谷現住民と元住民の、石丸元章と曽根賢(ピスケン)と武藤良子(イラストレーター)がしゃべる。いちおうテーマは、「雑司が谷番外地~どうせ俺らの行く先は~」ってことだ。

この顔ぶれ、すごい。めったに聞けない。会場に着く前から気分は高揚していた。

武藤良子による、石丸とピスケンに対する突っ込みが聞きどころではないかと思っていたのだが、武藤は突っ込むキッカケもないほど石丸とピスケンのカオス。自由と無政府のあいだ。

ドラッグとロマンチシズムのノイズの多い話がハイテンションで展開するなか、七曲がりと七曲がり荘、雑司ヶ谷霊園のすばらしさは、わかった。

雑司ヶ谷は、これからもドラッグとロマンチシズムを抱えていけるか、「~どうせ俺らの行く先は~」は、混沌としている。

話を聞きながら、1971年から現存する、大都会のなかのヒッピーのコミューン、コペンハーゲンのクリスチャニアを思い出した。最近ここを訪ねた知人がフェイスブックに書いているところによると、観光名所になっているらしい。

ノイズとカオスとDIYのまちは難しい。このトークの会場がトークのあいだ、そうであったようだ。

「寛容」「多文化」も、いうは易しく実際は難しい。大きい小さいに関係なく、社会も文化も、「自分たちでつくる」というDIY精神がなければ。

女を盗まれたと思っている男、盗んだのじゃない救ったのだという一方の男。20年前の女をめぐる争いの根は深いようだった。そりゃ、盗まれたと思っているのと、救ったと思っているのとでは、かなりズレている。

いつものように、サン浜名で打ち上げ。

少し前、雑司ヶ谷ジャングルブックスの占い師、田名有希さんがツイッターで占いに関する独白めいたことをつぶやいていた。それがおもしろかったのでリプライしあった。その田名さんが打ち上げに来たので、占いと本の話になった。

この話は、本をめぐる議論に関係することで、これまで欠けていると思われる視点なのだが、いまそのことを書いていると長くなるのでカット。

田名さんと話したあと、女を盗まれたと思っている男と救っただけと主張する男のあいだに移動した。

その話がぶり返され、盗まれた男が救った男に向かって、ジョッキのチュウハイをぶっかけた。が、あいだにいるおれが、ほとんどガバッと浴びることになった。しかも、盗まれた男は小柄なので、おれの顎から喉や襟元のへんに大量にかかった。

氷でシッカリ冷えたチュウハイで、下着まで濡れた。

どういう加減か、着ていたスポーツシャツの胸ポケットに、チュウハイのレモン一切れが入っていた。

濡れた衣服が乾き切らないうちに、時間も時間だから帰らなくてはならない、コートを着て外へ出た。この日は寒かった。電車に乗っているうちに身体がドンドン冷える、腹が冷たくなる。東大宮に着いて便所に駆け込んだ。

ノイズとカオスとDIYのいい一日だった。みちくさ市はやめられない。

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2017/11/18

「スソアキコの帽子の店」のち森美術館のち2軒ハシゴ酒。

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きのうは六本木ヒルズアリーナでやっている「生活のたのしみ展」へ行きました。タカビーな場所に、タカビーなものが並び、ボクのようなタカビーな人たちが、たくさん集まっていました。

会場も、「スソアキコの帽子の店」も、大にぎわい。アバンギャルドで実用的なスソさんの帽子がとぶように売れていました。ファッションセンスに優れたタカビーの人たちのあいだでは、「スソアキコの帽子をかぶっている」が、もうステータスになっているのです。もちろん、タカビーなボクも一つ持っていますよ。

ボクは、スソさんにご挨拶し、いつものように帽子をかぶってみてたのしんだあと、日本の芸術的タカビーのシンボル、六本木ヒルズ森タワー53階の森美術館へ行きました。今日から始まる「レアンドロ・エルリッヒ展 見ることのリアル」の内覧会を見るためです。ボクぐらいのタカビーになると、毎回内覧会とレセプションのインビテイションが届くのです。

いやあ、この展覧会は、すごくおもしろかった。ほとんどの作品が立体で、手で触れたり、そのなかに入って、自分が作品の一部になれる。遊園地にいるみたいだった。

水はないのにボートが浮かんでゆらゆら動く水面。「この鏡の迷宮から、あなたは現実の世界に戻れるか?」という展示のなかに入ったら、出られなくなりそうであせってしまった。「亡霊になった自分とご対面」や「キミも忍者になれる」「窓の向こうに、もうひとりの自分が…」など、タイトルだけでもおもしろそうでしょう。

「現実(リアル)とな何か」

まるでだまし絵のなかにいるようで、愉快にたのしんでいるうちに何が現実かわからなくなる、レアンドロ・エルリッヒは視覚的芸術的詐欺師ですね。そういえば、たくさんの人を集めていたタカビーな「生活のたのしみ展」も、糸井重里による詐欺的傑作といえましょうか。

この世は、すべて錯覚とペテンで成り立っているのです。だから、自分はビンボーだと思っているあなた、あなた、あなた、あなたたちは、けっしてビンボーではありません。ビンボーというのは錯覚で、あなたはタカビーなのです。

明日までやっている「生活のたのしみ展」へ行って、スソアキコの帽子を買ってかぶってみなさい、気分はもうタカビーです。明日のめしのことなど忘れられます。

明日になって食うものがなかったら、スソアキコの帽子をかぶって、コンビニで盗みをはたらけばよいのです。店員につかまったら、「私をだれだと思っている、この帽子が目に入らぬか」とやれば、留置場か精神病院あたりでめしにありつけるにちがいありません。

そして、1800円払って、ボクはタダで観たレアンドロ・エルリッヒ展のなかを歩いたら、もうこの世に不可能なことはなくなります。森タワー53階のガラスをぶちやぶり外へ飛び出すのです。

そうして飛び出したボクは、虎ノ門の居酒屋で、ワレにかえりました。

1010飲み物メニューの清酒に、「虎ノ門 300円」「霞ヶ関 350円」とあるではないですか。そんな酒があるなんて、これも先ほどのだまし絵の続きかと思ったのですが、それにしても、この50円のちがいはなんだ。虎ノ門の文科省より霞ヶ関の外務省や農水省が50円分エライということなのか。気になる。同行者の一人と両方とって飲み比べました。

50円の差は、わかりませんでした。ようするに役人は役人です。どちらも伏見のアル添の普通酒で、常温で飲んだのだけど、とても飲みやすく、すいすい飲めるのです。伏見の酒らしい、といえるか、やさしいさらりとした味わいでした。

もう一人の同行者が、タカビーな日高見を飲んでいたので飲み比べてみましたが、やはり純米酒はコクがありますね。でも、ボクのようなタカビーな人間は、いつもゼイタクなものを食べているせいか、普通酒の味わいのほうが身体にやさしい感じがして、虎ノ門をもう一杯飲んでしまいました。

この居酒屋は、国際詐欺団の事務所の近くにあるのですが、22時閉店で追い出されたワレワレ4人一行は、新橋駅へ向かいました。

このあいだ国際詐欺団の飲み会をやった横丁の飲み屋へ行くと、閉店の片づけ最中で入れませんでした。でも、その横丁の通路は、酒場と化していました。寒い夜でしたが、酒さえあれば、外でもかまわないわけです。味覚も寒さも錯覚ですからね。

通路にあるテーブルにテキトウに座ると、おねえさんが注文をとりにきました。

ああ、書くのがメンドウになった。

トツゼンですが、おわります。とにかく23時ごろまで飲んで帰りました。

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「見えていることだけが、現実ですか?」

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2017/11/14

来年1月14日(日)は下北沢でトーク。

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おれが美術同人誌『四月と十月』に連載の「理解フノー」と田口順二さんの絵による四月と十月文庫『理解フノー』の発売から一年がすぎた去る10月、同文庫の8冊目が刊行された。

牧野伊三夫さんの『仕事場訪問』だ。

これは、『四月と十月』に随時連載していた「仕事場訪問」から、編集しなおしたもの。

連載中からおもしろかったが、こうやってまとめてみると、さらにおもしろい。

なにがおもしろいかというと、美術家や芸術家といった人たちのジンジョーじゃない姿が浮かびあがるからだ。いろいろな意味でジンジョーではない。

しかし、読み終わるごろには、人間って一人一人、あんたもあんたもあんたも…おれも、いろいろな意味でジンジョーじゃねえんだなとおもえてくるところが、またおもしろい。

そういうジンジョーじゃない人間たちが集まってつくりあげているこの世は、ジンジョーじゃないのはアタリマエで、理解フノーなわけです。

ところで、『仕事場訪問』発刊を記念したトークイベントが決まり、なりゆきでおれも登壇することになった。

1月14日(日)、下北沢のB&Bで、15時からです。

トークのテーマなど詳細は後日あらためて告知します。

これまで、四月と十月文庫発刊のたびに出版記念会が行われ、前作の著者が新刊の著者に「脱稿旗」を渡すことをしてきた。

7冊目の『理解フノー』の前は、牧野伊三夫さんの『僕は太陽をのむ』だったから、牧野さんからおれが「脱稿旗」を受け取った。

いまおれの手元にあるそれ(じつはそのときの出版記念会で泥酔しすぎて持ち帰れず、都内某所にあずけたままになっている)を、また牧野さんに渡すことになる。

その「脱稿旗」を受け継ぐ式を、このB&Bのトークの場でやる予定だ。との連絡が入っている。いったい、どういうトークになるのか。

とにかく、ジンジョーでなく、たのしいおもしろいことになるにちがいない。1月14日を予定しておいてください。

牧野さんの本は、単著では、これで3冊目。『僕は太陽をのむ』のあと、昨年12月に『かぼちゃを塩で煮る』(幻冬舎)がある。これがまたよいんですね。かっこつけない、自由でのびのびした料理と食事と文章と絵が、牧野さんらしい。ぜひご覧ください。

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2017/11/13

初めての北戸田で。

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埼京線の北戸田駅に降りたのは初めてだった。

鈍感なおれにもグサッとくる殺伐さに興奮して、思わず写真を撮りまくった。

コンクリートと鉄のむき出しの空間。

駅前にはKOBANと送電線の鉄塔を背景に芸術的な彫刻が無造作にあったり、出来たばかりの頃はオシャレに見えたであろうサビだらけのポールの街灯、その向こうにそびえる唯一の高層建築、タワーマンション、まわりは空き地だらけだ。

そして、なんと、何もない駅前に、ポツンと一軒の本屋があるのだ。おお、これぞ、荒野の開拓者魂。「本好き」のみなさんは、おしゃれなセレクトショップばかりに色目を使ってないで、もっと広い荒野へ向かって、このような書店を応援するべきではないのか。

おれは荒っぽい景色が好きなんだな。だいたい気取ったオシャレな化粧の街にはうんざりだ。あれは見た目とちがい廃墟だよ。

こういう景色のところには、必ず生々しい「生」の姿がある。

身体をはって生きるものたち。

きのうは、北戸田駅に13時集合だった。人だまりのない「無」の空間に集まった身体をはって生きるものたち一行は、建設現場へ向かうようなワゴンに乗せられた。

どこか知らないところへ拉致されるのだ。

駅からどんどん離れる。殺伐とした景色は続く。

この世は物流で出来ている。人間だってモノにはちがいない。そのモノが移動し交わることで、文化が生まれるのだ。文化は、殺伐とした景色のあとについてくる。と、あらためて感じ入るほど、頑丈な道路が交差しては続いていた。

先にモノの流れありき。

ワレワレが乗った車は、資材置き場やダンプが並ぶ荒れ地のような一角、工事現場のような囲い塀の中に吸い込まれた。うーむ、なにが始まるのか、麻薬の取り引きか拳銃の取り引きか。

しかし、この建物には、しびれた。しばし、あんぐり口をあけて眺めた。ほれぼれ。

ああ、もう書くのが面倒だ。

ここで、なんと22時まで缶詰にされ、その間に支給された弁当一つを食べ、酒はない。ワレワレがやったのは、ピンク映画のエキストラなのだ。もちろんエキストラ代は、いただきました。目の教養にもなりました。

まさに、生々しい「生」と「性」の現場。

しかし、何カット撮ったのだろう。ずいぶんたくさんあった。

撮影現場は昔から、フィルム、ビデオとも何度も経験しているし、そうそう「おとな選手権」なんていうお色気DVDにも出演したことがあるけど、ピンクは初めて。いい経験になった、人間の「生」と「性」について考えることも多かった。

以前からこのブログをご覧の方には、この映画の監督が誰かわかるだろう。あの哲学的リクツの多い、そしてあの話題の文芸映画の脚本を書いている方だ。その監督が、俳優に向かって、マジメな顔で「もっと股の奥に手を入れて」とかやっている景色は、なかなかいいものでした。

この映画は、来月上旬に初回試写があり、来年早々公開の予定。タイトルはまだ変わると思うので、はっきりしたら、上映日とあわせ告知します。とにかく、「チカンモノ」なんだけど、この監督らしく、チカンが切り刻まれるチカン撲滅ピンク映画なのであります。傑作に仕上がるでしょう。

楽しみだねえ。

北戸田もまた行きたい。ピンク映画のエキストラもまたやりたい、いや、主演男優をやらせてくれないかなあ。

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2017/11/10

バブルだねえ~。

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一昨日8日は、朝10時に家を出て、浅草で2軒はしご。浅草から高円寺、円盤で買い物をしてから座高円寺で打ち合わせ、のち大将で飲み、最後は中野で泥酔した。

ひさしぶりにかなり歩いて飲んで、昨日はバテバテだった。

このコースとも画像とも関係ないが、いろいろな人にいろいろな話を聞いて、ようするにバブルだねえ~という感じだった。

株価もそうだが、なにより、バブリーなフワフワした話が多い。

「銀行が金を借りてくれといってくる」という話を聞いた。これは、まさにバブルだ。かつてのバブル景気のときには、それで金を借りてひどい目にあった人が少なくない。おれの周囲だけでも数人はいる。そういうキョウクンもあるていど伝わっているのか、借りるのには慎重になっているようだが。なんとなく「全体は金回りがよい」錯覚には陥る。

バブル景気のときもそうだったが、メディア関係は、比較的恩恵を受けやすい。文化的なものがハヤリ、文化的であることが「いい」ことになり、「いい」ものなら売れるという根拠のない話も多い。町のギャラリーも、増えているから競争は激しいだろうが、とにかく増えているということだ。

こんなときは、文化的なエラそうなやつが増える。バブルを背景にちょっと成功したぐらいで、自分の実力とカンチガイし、鼻息荒くエラそうなことをいう。じつに内容のない話が多いのだが、地味で着実な話より、フワフワした話が受けるのもバブルの特徴だ。

「やりたいことをやれ」とか「すきなことをやれ」とか、文化的な仕事の自分の「成功」を根拠にしたような、いまどき調子のよい人の調子のよい話は、無視したほうがよい。

バブル景気とちがうのは、バブル景気の恩恵は、少なく見積もっても7割以上に影響があったと思われるが、いまのバブルは、その逆の構造になっているようだ。という感じだ。以前は「中層」の存在感があったが、いまは「上層」と「下層」にわかれてしまったからだろう。

鼻息の荒い「上層」と、一生懸命あきらめる「下層」では、かなり感覚がちがう。

「上層」の話に耳を傾けていたら、また大きなまちがいをするだろうけど、でも「上の人」「力のある人」にヨワイ傾向は簡単にあらたまるわけではなく、またヒドイことになりそうな気配が濃厚だ。

かりに消費税が10%にならなくても、税負担がふえている。飲食店にとっては厳しい環境が続く。文化的芸術的飲食は、そういうことには、まったく関心をしめさない。文化的芸術的「いい」に金を出せる人は限られている。そこへ向かって金と野心が動く。さらに分断は深まる。

バブルは、国富に土地等不動産が占める割合の高い日本の宿命なのか。

荒野に何が残るんだろう。

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2017/11/07

もっと普通に自然に飲食を語りあえないものか。

きのうの『欲望と消費』を読んで、ふりかえってみると、メディアでは、普通に自然に飲食を語り合う場が、少なすぎるように思う。

おおよそ1970年代までは、「主婦」あるいは「女」の「仕事」として語られるほかは、飲食を仕事にしている男たちや文士や文化人に属する人たちや好事な人たちの話が多かった。いまでも、この傾向は、続いている。

さらに、飲食は、1980年代からの消費主義の恰好のテーマになった。いわゆる「グルメ」の市場が広く細かく多様に形成され、飲食を娯楽や教養や知識や情報として消費する傾向も広まり、そこにチャンスをつくろうという人たちの欲望がうずまくところとなった。

世間に認められたり注目されたり売れる「チャンスをつくる」場として飲食の話題に、人びとは群がるようになったのだ。

これは、売れるチャンスをつくるのもジャーナリズムだというメディアの流れの反映でもあるが。

競争が激しいんだから仕方ないじゃないの、チャンスを普通や自然にまかせていては、「負け組」ですよ。チャンスはつくりだすもの。そういう「上昇志向」が席捲した。

気がつけば、普通に自然に飲食を語りあうということはどういうことかも、わからなくなった。

文章にしても、写真にしても。

でも、もっと普通に自然に飲食を語りあえないものかと思っている人たちもいる。

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2017/11/06

欲望と消費。

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「戦争が婉曲に示唆されている今だからこそ、その窓をながめ、今の発展をもたらした方法――"現実"と呼ばれるものが組み立てられるプロセスをみつめることが重要なのだ。私たちはメディアを通して、もっとも手に入れやすく押しつけがましい社会のパノラマをみるのである」

スチュアート&エリザベス・イーウェンが1982年に著し、1988年に晶文社から小沢瑞穂の訳で出版された『欲望と消費』は、何度も読んでいるが、あらためて読むとコワイぐらいだ。

この本が書かれた時代には「婉曲に示唆されている」にすぎなかった「戦争」は、その後、アメリカでは現実になったし、いまの日本でも現実味が増している。それは、アメリカや周辺国のせいというより、いま生きている現実のなかにある。そして、その現実が組み立てられるプロセスを、それほどよくみつめてきたわけではない。

グヘェ~、どうなるんじゃ。

昨日、一昨日、だったかな? アメリカのトランプ大統領が来日し、日本の安倍首相は接待と支持率アップの演出に懸命だ。

アメリカの消費主義と日本の消費主義は歴史も内容もちがいがあるけど、日本のほうが安易な消費主義に浮かれてきたぶん、アブナイ面を抱えているような気がする。それは、民主主義の歴史が浅いことも関係するのかもしれない。

とくに「消費の自由」が自由であり、「消費の権利」が権利だと思い込んでいる人が圧倒的に多く、それは裏を返せば、自由や権利は稼ぎに応じて分け与えられるものという考え方だ。それがアタリマエのようにまかり通っている。

1980年代からこちら、消費主義が猛威をふるうなかで、そういう考えが広まった。

「社会の細分化が悪化の一途をたどり、全体が崩壊しはじめると、軍国主義が再浮上して、新たな統一体の基盤となる隙をうかがうようになる。マスメディアに支配されたパノラマは、ますます多様化しながら戦争の可能性に向かっている」と、これは当時のアメリカのことを指摘しているのだが、「郊外の豊かさを約束し、それを果たす能力の欠如が問われている今、その可能性はいちだんと不吉に思われる」と。

日本も、約束されていた郊外の豊かさは、あれはマボロシだったのかとおもうぐらい崩壊し、しかも、その約束を果たせなかった能力の欠如は問われない。為政者にやさしく、一般人にきびしい。これがまたヤバイ。

消費主義は、「個」をバラバラにする。「個人のばらばらな経験を企業の優位と集合的な衝動に結びつけること」が広告産業の目標だが、日本の広告代理店最大手は、自社で過労死事件まで起こしながら、その目標に向かって精力的に活動している。

バラバラの個にメディアが働きかける。ここにこんないい店があるよ~というと、バラバラの個は衝動的にそこへ向かう。純米酒がブームだ、クラフトビールがブームだ、国産ワインがブームだ…企業の優位と集合的な消費の衝動が、つぎつぎに展開する。

ま、飲食ぐらいのことだ、ですめばよいんだが、それではすまない。そういう思考と行動の回路は無限に続き飼い馴らされてしまう。

「メディア・イメージが個の統合のシステムとして機能するかぎり、国民を愛国主義、自己否定、戦争へとかりたてる手段として利用される」

実際にアメリカは戦争をやった。アメリカは実際に戦争をやる国なのだ。その国の大統領がやってきた。

「政治優先主義に挑戦することが必要である」と、『欲望と消費』は述べている。その具体例もあげているのだが、いまの日本では、ちょっとどうかなという感じだ。

とにかく、政治的議論だけではダメなのだ。いま食って生きているシステムとカルチャーから考えなくては。消費主義、そのカルチャーと、どう向き合うのだろう。それは欲望と向きあうことでもあるだろう。

めんどくせえ~。

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2017/11/05

埼玉県立近代美術館(埼玉近美)の「ソカロ」が面白い。

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先日、北浦和は埼玉近美の「ディエゴ・リベラの時代」で興奮したとき、発券カウンターで当館編集発行のフリーペーパー「ソカロ」の最新号をもらった。これが心憎いほどよくできている。

開館35周年記念号であり、A3見開きで「総力特集!【学芸員 開放計画】」を組んでいるのだけど、タダではもったいないほど、面白い。

「埼玉県立近代美術館では現在、多様な専門、経歴、世代の学芸員が活躍しています。35周年にあたり、当館学芸員の皆さんに、埼玉県立近代美術館の特色やこれからについて語ってもらいました」と。

「1、歴代館長について」は、開館から三代の館長と仕事をしてきた、主席学芸主幹が語る。
「2、美術館につとめてみたら」は、約25年間学芸員を務めてきたチームリーダー2人の対談。
「3、美術館につとめてみたら」は、2000年に入ってから当館に勤め始めた3人の若い学芸員の座談。

という構成。

「この美術館の基本路線を作った」初代。「「なぜ美術館が必要なのか」ということを考えた」二代目、そして現在の三代目館長は「これからの埼玉県立近代美術館」を。これを読んで、埼玉近美で見た、これまでの展示や埼玉近美が発するオーラをふりかえり、なるほどね、と思う。

それは、学芸員の話で、さらに補強される。

もともと美術館の学芸員がどんな仕事をしているのか知らないのだが、いつも近美の展示を見ては、うまい企画だなあと思っていた。

そのうまさのヒミツが、この「ソカロ」に、そっくりあらわれている感じがした。自由でのびのびとした誌面づくりや語りは、近美の展示そのものだ。

近美の展示には、いいできの雑誌を見るような、親しみやすい楽しさと充実がある。テーマと構成がしっかりしていて、雑誌でいえばコラムやカットに相当するようなものまで、考え抜かれた展示なのだ。それも、「ソカロ」の誌面にもあらわれている。欄外まで小さな読ませるネタで埋めつくし、楽しい、開放的。

「県立」という堅苦しさがない。そのなぜかは、「2、美術館につとめてみたら」の対談で納得した。

梅「埼玉県立ですが、インディーズっていう感じがありますね。手づくり感という意味で。それほど巨大じゃない美術館で、自主企画重視なので、自分たちで作っているという感覚ですね」
平「インディーズと同時に、例えば上野や六本木の美術館のオルタナティブとして埼玉があるのかもしれないですね」
梅「資本的にもエリア的にも東京中心に王道があるとしたら、それに対する批評精神、対抗精神、そういうのに負けないぞという「意志と意地」、インディーズの精神が流れています。こっちのほうが面白いだろ、みたいな。そういう感じはどこかにあるかもしれないですね」

あるある、いいぞいいぞ、とおれは思う。

これ、埼玉近美だけのことじゃないぞ、こういう埼玉、いいじゃないかと思う。

おれが、『dancyu』7月号酒場特集で、埼玉近美から近い北浦和の「居酒屋ちどり」を書いたとき、「インディーズ文化がうごめく北浦和の街」を囲みで紹介している。居酒屋ちどりや古本喫茶酒場の狸穴や、北浦和の音楽イベントなどで、「街にうごめく自由と自主のインディーズ文化の呼吸を感じる」と。

その呼吸は、埼玉近美で感じる呼吸でもあったのだ。

埼玉近美に期待がふくらむ。埼玉に「希望」というのがあるとしたら、これだろう。

ところで、「ソカロ」ってのは、「ZOCALO]というメキシコの都市の広場を意味するスペイン語だそうだ。

インディーズの精神とオルタナティブとしての埼玉。埼玉近美は、その広場をめざしているのだね。

もちろん、埼玉には、こういう広場のような、いい酒場もあるし、もっと増えるといいねえ。そういう広場のような人間をめざそう。おれはもうジジイだが。

当ブログ関連
2017/11/01
「ディエゴ・リベラの時代」に興奮、ザ大衆食のサイトをいじった。
2017/03/28
「日本におけるキュビスム ピカソ・インパクト」展。

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2017/11/04

「カニコーセン」初体験。

カニコーセンのうわさは、関西の人にきいていた。AZUMIさんのアルバム「夜なし」にも入っている「播州平野に黄砂が降る」は、カニコーセン(堤雅彦)の作詞作曲で、知っていた。

製鉄所の煙突は、粉塵をまきちらして
ガンメタリックな空の下、砂利運搬車はゆれている
国道沿いの風景は、中古車販売の輩が
さびた鉄パイプ、振り回し 朝からヨサコイの節回し

播州平野に黄砂が降る
ふらへんか、あっ、やっぱふるか、どっちでもええか

百均がねじこまれた あきらめムードの空き店舗
シャッター通りのマネキンが、目線を来世に向けている
国道沿いのシネコンは、どでかい映画をからまわし
どてらいバーガー店の波
安直な和解で受け入れた

播州平野に黄砂が降る
ふらへんか、あっ、やっぱふるか、どっちでもええか

やっと、そのライブに行けた。カニコーセンは、夫妻で子供を連れ、関西から新幹線でやってきた。

場所は、北浦和の居酒屋ちどり。きのうのブログ「「文化の日」なんだって」を書いてから出かけた。

19時スタート、立ち見もギュウギュウな混みよう。

予想以上にクソ刺激的な破壊と愛しさに満ちたライブだった。

「ヤギアキコのおまんこふやけるまでシャブりたい」

これが、新作CDのタイトルで、その文字をアレンジしてデザインしたトートバックも一緒の売り出し。

もちろん、ライブでも、「ヤギアキコのおまんこふやけるまでシャブりたい」もやって、このフレーズのリフレインは、一緒にうたわされた。みな小さな声で口ずさむようにあわせていたが、小さな声でも揃えば、波になる。

といっても、タイトルのどぎつさとちがい、大人になって幼い初恋を思い出すような、ほのぼのやさしさがただよう曲なのだ。

だけど、どのうたも、一筋縄ではいかない。アナーキーでパンキッシュ。コミカルだが、皮肉も痛烈。ブラックもホワイトもあります。酔ったり醒めたり。

気取った文化の日の綺麗事の文化を破壊しまくるようなライブ。いいライブだった。

「酔いがさめたらうちにかえろ」が最後だったような気がするけど、酔いがさめないうちに狸穴へ行ってさらに飲み、酔いがさめないうちに帰った。

今日、『雲遊天下』に堤雅彦さんが連載しているのを思い出し、引っ張り出して読みなおした。

「カニコーセンの事件は現場でおきてます」(「ます」は、正方形に斜線の絵文字)

日常のなかの事件事故。事件事故がなくても、事件事故になってしまう日常。

今週は、11月になって1、2、3と3日続けて北浦和へ行った。

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2017/11/03

「文化の日」なんだって。

今日は「文化の日」だそうで、いろいろなイベントが花ざかりだ。

ところが、にぎやかなのは、美術や音楽や本(出版)といった、ま、「表現者」たちが中心の舞台がにぎやかで、こういうときになると、料理する人(プロの料理人とはかぎらない)や料理などは(食欲を満たしたり客寄せ販売のネタになっても)文化とみなされてない景色が浮かびあがる。

日本国憲法第二十五条には、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」とある。

ここで謳われている「文化」ってなんなんだろうねえ、と思う。

経済的にも文化的にも、かえりみられない人たちがいる。その存在が注目をあびるのは、トランプが勝ったり安倍が勝ったり、あるいはファシズムやポピュリズムの台頭が語られるときぐらいだ。

その語っている人たちはと見れば、「反」だろうと「賛」だろうと、不特定多数を対象としたマスメディアで一定の位置を得ている人たちがリーダー格として機能している。

マスメディアで一定の位置を得ているということは、大中小零細はあっても、それなりの権力を有しているということだ。マスメディアで発言できる力を持っている人が、そういう力を持っていない人たちのことを、どのていど視野に入れているか、これは民主主義の問題でもあるけど、文化の問題でもあるだろう。

政治や経済がかえりみない人たちを、文化までが見捨てたら、かれらはどこへ行くだろうか。ということを、表現者として文化に関わる人間は、責任もって考えなくてはならないのではないか。

選挙結果を見て、ポピュリズムやリベラルなどを論じていても、何も改善されない。選挙結果などは、日常の積み重ねの結果なのだから。

にぎにぎしい表現者が中心になってのイベントもよいが、そこでは「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」の「文化」が、どのようにとらえられ、どのように語られているのだろう。ということが気になった。

近ごろは、「分断」がいわれるけど、マスメディアから文化的に重宝がられている人たちの文化と、文化的にもかえりみられることのない人たちの文化のあいだの亀裂は、ますます深くなっている感じがしている。

政治的であれ、経済的であれ、文化的であれ、それなりに力を有するものが、自分の好きなようにやり、力のない人たちに対する責任を考えなくなったら、そりゃ、民主主義も衰退するだろう。

食文化にあらわれている「分断」は生活の分断でもあるのだ。それは、ずいぶん面倒な事態になっていると思う。

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2017/11/02

料理には時間をかけない。

少し前だが、10日間ほど毎日通院していた。医院の待合室には、うちにはないテレビがつけっぱなしになっている。

ある日、85歳でチアリーダーをやっているおばさんが登場した。近ごろ本を出したり、マスコミで騒がれている人らしい。85歳でチアリーダーというのもネタにしやすいが、その人のこれまでの人生もドラマチックで、ネタ満載の人だ。

カメラが彼女の生活を追いかけるなかに、自分で料理をし食べながら食生活について語る場面があった。

彼女がよく作るのはチャーハンで、料理にかける時間は10分ぐらい。あまり時間はかけたくないという。ほかに楽しいことはいくらでもあるから、と。チャーハンには、いろいろなものをまぜて、それで、いろいろ食べていることにしているようだ。

カメラの前で、チャーハンの材料をきざみ、「手抜き~、足抜き~」などと鼻歌うたいながら作るのだが、けっこう楽しそうだ。

食事の時間も決めてないようで、テーブルの上にセンベイなどの菓子が器に積んであって、それをテキトウに食べる。コーラが好きで、せんべいを食べながらコーラを飲む。冷蔵庫には、コーラとアサヒスーパードライのレギュラー缶が、たっぷり入っていた。

健康のヒケツをきかれると、とくに気をつけていることはない、とにかく楽しくすごすだけと答える。

この番組を見ながら、食の楽しみや悦びは、人それぞれの人生の楽しみ方によるはずだが、そういう視点からの飲食や料理へのアプローチが少なすぎるなと思った。

時間をかけて、いいものを食するほど、いい料理やいい食事であり、そこにいい人生があるかのような観念が、押しつけがましく抑圧的に喧伝される。「手抜き」は「悪」に分類される。

彼女は、亭主関白のもとで、そういう抑圧をガマンしてすごし、ついにガマン仕切れず50歳をすぎてから家を飛び出したのだから、そういうことに敏感なのかもしれない。

一方、テレビなどメディア側は抑圧的であることに鈍感になっているのではないか。たえず優等生な金言を求め流布しようとする。それは、おれのようにメディア周辺で飲食などをテーマにして仕事をしている人間の問題でもあるだろう。

彼女は、料理のことも健康のことも、テレビ側が期待する「優等生な答え」を察知していて、あえてはずしている感じもあったが、料理にあまり時間はかけたくないという気持はよくわかるほど、いろいろ楽しく過ごしているようだし、ようするに、料理や食事の楽しみは、かける時間や金で決まるのではないというのは当然ではないか。

だとしたら、10人10色のそこを、もっと見なくてはならない。が、出版のばあいだが、それでは稼げない。よって、改善はされない。人間だもの、どこかしら手抜きをしたり手は抜かなくても思考に限界があるのは当然でダメなところがあっても、「私は完璧だ」という抑圧顔を押し通す。難儀なことだ。

「抑圧顔」より「解放顔」を。

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2017/11/01

「ディエゴ・リベラの時代」に興奮、ザ大衆食のサイトをいじった。

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埼玉県立近代美術館は、ほんと、いい企画展をやる。

今回は、開館30周年ということで、「ディエゴ・リベラの時代 メキシコの夢とともに」だ。

何かで告知を見たときから、これは絶対に行くと決めていた。そして昨日、行った。

見ているうちに身体がグイグイ熱くなった。脳ミソが刺激をうけ、爆発しそうだった。

昨日は、15時に家を出る予定が、16時近くになり、着いたのが16時半。17時半閉館だから、1時間しか見る時間がなかった。最低でも1時間半は必要の規模だ。

少しはしょり気味だったが、おれのようなトーシロには、それがかえってよいということもある。シッカリ得るものは得た。

しかし、もう一つの見たいと思っていた展示、MOMASコレクションは見られなかったので、半券が残っているし、今日も行って来た。このMOMASコレクションも、いつ見てもよい。

県立近美、愛しているよ~。

その愛と関係あるのかないのか、ザ大衆食のサイトに、「東京新聞「エンテツさんの大衆食堂ランチ」」を新設し、過去5年間に登場した食堂の一覧を載せた。
http://entetsu.c.ooco.jp/04_tokyo-shinbun/tokyo-shinbun-00.html

これも、「ディエゴ・リベラの時代」から注入されたエネルギーのおかげか?

いやいや、「ディエゴ・リベラの時代」のエネルギーは、こんなものではない。

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