エッセーというものは、
植草甚一『こんなコラムばかり新聞や雑誌で書いていた』(ちくま文庫)の「こんなしゃれた題名は中田耕治の頭にしか生まれてこないだろう」に書いてあるところによれば。
中田耕治の「「ソウルフル・サーカス」の「はじめに」という前書きでは、自分にむかって、つぎのようなパラドックスを飛ばしている」そうで、それは、このような文だ。
エッセーというものは、とても不思議なものです。それは自分の考えを述べるために書かれるだけではありません。自分の考えをうまく隠すためにも、それ以上ふかく考えないですむためにも書かれるのです。
あるいは、ちがった意味にとらえた低次元のことになるかもしれないが、おれもまったくそのとおりだと思うし、エッセイにかぎらず、「書く」ということが、たいがいそうだと思う。
テーマからして自分に都合のよいように選び、だいたい、ふかく考えたくないことは、はずしている。そのうえで、ふかく十分考えたと自分に言い聞かせながら、自信を持って書き上げる。
だから、ひとが書いたものを読むときは、書かれてないことについても、考えなくてはならない。
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