欲望と消費。
「戦争が婉曲に示唆されている今だからこそ、その窓をながめ、今の発展をもたらした方法――"現実"と呼ばれるものが組み立てられるプロセスをみつめることが重要なのだ。私たちはメディアを通して、もっとも手に入れやすく押しつけがましい社会のパノラマをみるのである」
スチュアート&エリザベス・イーウェンが1982年に著し、1988年に晶文社から小沢瑞穂の訳で出版された『欲望と消費』は、何度も読んでいるが、あらためて読むとコワイぐらいだ。
この本が書かれた時代には「婉曲に示唆されている」にすぎなかった「戦争」は、その後、アメリカでは現実になったし、いまの日本でも現実味が増している。それは、アメリカや周辺国のせいというより、いま生きている現実のなかにある。そして、その現実が組み立てられるプロセスを、それほどよくみつめてきたわけではない。
グヘェ~、どうなるんじゃ。
昨日、一昨日、だったかな? アメリカのトランプ大統領が来日し、日本の安倍首相は接待と支持率アップの演出に懸命だ。
アメリカの消費主義と日本の消費主義は歴史も内容もちがいがあるけど、日本のほうが安易な消費主義に浮かれてきたぶん、アブナイ面を抱えているような気がする。それは、民主主義の歴史が浅いことも関係するのかもしれない。
とくに「消費の自由」が自由であり、「消費の権利」が権利だと思い込んでいる人が圧倒的に多く、それは裏を返せば、自由や権利は稼ぎに応じて分け与えられるものという考え方だ。それがアタリマエのようにまかり通っている。
1980年代からこちら、消費主義が猛威をふるうなかで、そういう考えが広まった。
「社会の細分化が悪化の一途をたどり、全体が崩壊しはじめると、軍国主義が再浮上して、新たな統一体の基盤となる隙をうかがうようになる。マスメディアに支配されたパノラマは、ますます多様化しながら戦争の可能性に向かっている」と、これは当時のアメリカのことを指摘しているのだが、「郊外の豊かさを約束し、それを果たす能力の欠如が問われている今、その可能性はいちだんと不吉に思われる」と。
日本も、約束されていた郊外の豊かさは、あれはマボロシだったのかとおもうぐらい崩壊し、しかも、その約束を果たせなかった能力の欠如は問われない。為政者にやさしく、一般人にきびしい。これがまたヤバイ。
消費主義は、「個」をバラバラにする。「個人のばらばらな経験を企業の優位と集合的な衝動に結びつけること」が広告産業の目標だが、日本の広告代理店最大手は、自社で過労死事件まで起こしながら、その目標に向かって精力的に活動している。
バラバラの個にメディアが働きかける。ここにこんないい店があるよ~というと、バラバラの個は衝動的にそこへ向かう。純米酒がブームだ、クラフトビールがブームだ、国産ワインがブームだ…企業の優位と集合的な消費の衝動が、つぎつぎに展開する。
ま、飲食ぐらいのことだ、ですめばよいんだが、それではすまない。そういう思考と行動の回路は無限に続き飼い馴らされてしまう。
「メディア・イメージが個の統合のシステムとして機能するかぎり、国民を愛国主義、自己否定、戦争へとかりたてる手段として利用される」
実際にアメリカは戦争をやった。アメリカは実際に戦争をやる国なのだ。その国の大統領がやってきた。
「政治優先主義に挑戦することが必要である」と、『欲望と消費』は述べている。その具体例もあげているのだが、いまの日本では、ちょっとどうかなという感じだ。
とにかく、政治的議論だけではダメなのだ。いま食って生きているシステムとカルチャーから考えなくては。消費主義、そのカルチャーと、どう向き合うのだろう。それは欲望と向きあうことでもあるだろう。
めんどくせえ~。
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