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2017/11/03

「文化の日」なんだって。

今日は「文化の日」だそうで、いろいろなイベントが花ざかりだ。

ところが、にぎやかなのは、美術や音楽や本(出版)といった、ま、「表現者」たちが中心の舞台がにぎやかで、こういうときになると、料理する人(プロの料理人とはかぎらない)や料理などは(食欲を満たしたり客寄せ販売のネタになっても)文化とみなされてない景色が浮かびあがる。

日本国憲法第二十五条には、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」とある。

ここで謳われている「文化」ってなんなんだろうねえ、と思う。

経済的にも文化的にも、かえりみられない人たちがいる。その存在が注目をあびるのは、トランプが勝ったり安倍が勝ったり、あるいはファシズムやポピュリズムの台頭が語られるときぐらいだ。

その語っている人たちはと見れば、「反」だろうと「賛」だろうと、不特定多数を対象としたマスメディアで一定の位置を得ている人たちがリーダー格として機能している。

マスメディアで一定の位置を得ているということは、大中小零細はあっても、それなりの権力を有しているということだ。マスメディアで発言できる力を持っている人が、そういう力を持っていない人たちのことを、どのていど視野に入れているか、これは民主主義の問題でもあるけど、文化の問題でもあるだろう。

政治や経済がかえりみない人たちを、文化までが見捨てたら、かれらはどこへ行くだろうか。ということを、表現者として文化に関わる人間は、責任もって考えなくてはならないのではないか。

選挙結果を見て、ポピュリズムやリベラルなどを論じていても、何も改善されない。選挙結果などは、日常の積み重ねの結果なのだから。

にぎにぎしい表現者が中心になってのイベントもよいが、そこでは「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」の「文化」が、どのようにとらえられ、どのように語られているのだろう。ということが気になった。

近ごろは、「分断」がいわれるけど、マスメディアから文化的に重宝がられている人たちの文化と、文化的にもかえりみられることのない人たちの文化のあいだの亀裂は、ますます深くなっている感じがしている。

政治的であれ、経済的であれ、文化的であれ、それなりに力を有するものが、自分の好きなようにやり、力のない人たちに対する責任を考えなくなったら、そりゃ、民主主義も衰退するだろう。

食文化にあらわれている「分断」は生活の分断でもあるのだ。それは、ずいぶん面倒な事態になっていると思う。

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