「駄蕎麦」
『TASCマンスリー』12月号が届いた。毎号、表紙は久住昌之さんの切り絵で、表2に、その文がついている。
切り絵のほうは、上海の日本蕎麦居酒屋の店主で、文には、その店主とは関係なく、「駄蕎麦は嗜好品ではないらしい」とのタイトルがついている。こういう文章だ。
蕎麦は、今や嗜好品と普通の食事に、二極化しているようだ。
前に頑固親父の手打ち蕎麦屋で、大学生が、
「腹一杯にしてぇんだったら、そこら辺の駄蕎麦を食ってりゃいいんだ」
と言われて小さくなっていた。そこの蕎麦は嗜好品なのだろう。
駄蕎麦。それは嗜好品ではない。でも、僕は主人にだ蕎麦と言われるであろう、立ち食い蕎麦屋の真っ黒い汁のボソボソ麺も、大好きだ。
昔は、手打ちではないけど、普通においしくて、丼ものやカレーライスもある町の蕎麦屋がもっとたくさんあった。僕はそういう店が好きなんだけど、都市部ではどんどん消えている。本格手打ちか、チェーンの立ち食い。ちょっとさびしい。
このことは、いろいろな問題をはらんでいると思う。
先日、あるところで打ち合わせの最中に、最近の「いい趣味」をしている本屋やカフェやパン屋などをチヤホヤする風潮はおかしいよねという話があった。本や喫茶やパンは、生活ではないのか、それは店主にとっても客にとってもということで、しばらく話題になった。
ま、おれはそっちのほうじゃないよという態度で耳を傾けながら、飲食をテーマにして書いている身としては、針の上のムシロとまではいかなくても、なんだか落ちつかない気分だった。
もともと日本には、「生活臭」のないものが文化的であると評価される傾向があったが、それだけではない現代のいろいろからんでいる。
簡単にいってしまえば、新自由主義と消費主義が抱き合って生まれたような思想と実態にかこまれている日々のわけだ。「いい趣味」と「駄」の二極化、ともいえるか。
きょうは、こういうツイートを見た。
ジロウ @jiro6663
あるお酒が「とにかく安くて強い」という理由で流行り始めるといよいよ一人前の貧困国というか絶望社会という感じがしてくるが、世界史や国際情勢という遠い話として聞いていたその光景をよもや自国で目にする時がくるとは、という感慨もある。
11:30 - 2017年12月7日
https://twitter.com/jiro6663/status/938596663878344706
これは、「駄酒」の話になるだろう。
いい趣味からは、見下されるか無視される、駄な暮らしの飲食が広く存在する。おれなどは、駄の日々だ。それが普通の日々だ。「いい趣味」をめざす気は、さらさらない。
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