和菓子のこと。
和菓子のことを調べていて思い出したが、和菓子屋の経営が打撃を受けたのは、コンビニがレジまわりにちょっとした大福などの和菓子を置き始めたから、というのはどちらの当事者からも聞いた話だ。
そういう意味では和菓子は生活に根づいたもので、まちの和菓子屋もけっこうあった。生き残ったのは、立地がよかったか、コンビニの商品に負けないものをつくってきた、ということになるのかな。
おれがガキのころは、和菓子というと、いわゆるおやつのほかに、食事の後、必ずゆっくりお茶を飲むのであり、そのとき食べるものだった。これは、デザートともいえるもので、日本の菓子は、少なくともおれがガキのころまでは、食事の一環あるいは補完や代用として位置づいていた。
それが、どのようにして食事の思想から別のものになったかということは、おもしろい現代的なテーマだと思う。
たぶん、「食事のだんらん」というものが普通だった時代と、それが崩れていったことにも関係するだろう。
ところが、和菓子というと、例によって職人技のような、生産サイドの話ばかり多く、生活のなかの文化としてどうだったかの話は、少ない。たぶん書くのも大変だし、書いても売れないからだろう。文化的な装いをした話をしていても、根本は文化的ではなく、産業的であり消費的なのだ。
そうやって、文化の断絶の溝が深まる。
和菓子や和菓子についての話は、生活必需のことからはなれて嗜好品的に消費を刺激する恰好な位置を占めるようになった。それにつれて、食事の文化として語られることがなくなったのだ。
と、いえそうだ。と、今日は考えていた。
おれがガキのころから食べていた、新潟の笹団子を調べていて、そんなことになった。
おれの記憶では、生活からはなれたものとしての菓子は、いつごろだったか、小学校に上がるまえだろう、クリスマスの安っぽいショートケーキあたりから始まったように思う。いや、もしかすると、キャラメルやドロップあたりかもしれない。夏にはキャンデーもあったな。キャンデーは、駄菓子のような、娯楽としての菓子といえるかな。と考えていると、生活のなかの菓子の文化と、そうでない菓子の文化の境目あたりがみえてきそうだ。
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