貧せざれば鈍す。
『四月と十月』の次号(38号)の原稿の締め切り日を知らせるメールがきた。半年に一回のことなので、この知らせが届くと、はて今度は何を書くかなと考える。
前々回から「バブルの頃」というタイトルで、一回目は「錯覚」、二回目は「見栄」と続き、最後の三回目は「崩壊」の予定だ。
きのう書いたように、近ごろ身辺でバブルの話題が多いこともあって、80年代後半のバブルを思い出している。
何度か書いているが、日本を「バブル」と「バブル後」で見る見方があるけど、おれはそういう見方をしていないし、学者とかジャーナリストとか文筆家ようするに「オピニオン」や「識者」がするそういう話は用心して咀嚼する必要があると思っている。
80年ごろからの内需拡大政策と新自由主義と新保守主義が絡み合った潮流が基本にあって、それそのものがバブル経済を生んだわけではないけど、バブル経済でそれらに拍車がかかった。
いわゆる「バブル崩壊」で、いろいろなことが吹っ飛び、負を背負い、日本は自信をなくしたようにいわれたりしていても、内需拡大政策と新自由主義と新保守主義のあたりは元気で、なかなか鼻息もあらいのは、そういうわけなのだ。
その延長で、90年代後半には「ものづくり日本」なんていうことが盛んにいわれるようになって、ついには「ものづくり日本大賞」なるものもつくられた。
政府が金をばらまいている。そこにたかって「ものづくり日本」の旗をふって商売にしている賢い人(=あざとい人)たちも少なくない。これには「地方創生」も絡んでいる。
この根っこは、80年ごろからの「村おこし」「一村一品運動」あたりからで、いわゆる「ものづくり史観」ともいうべき幻想に支配されている。バブルのときには、「地方創生交付金」なるものもあった。そうそう「芸術文化でまちづくり」なんてのもいわれ、人口減のとまらない町に芸術文化会館ができたり、芸術家や文化的なオシゴトをする人たちがウジャウジャ湧きだした。
専門家のみなさんが指摘しているように、それらは「補助金消費事業」としてだけ存在し、補助金つまり税金がつかわれ、それが動いているあいだは維持されていた事業も自立までいたらず消滅するという例は「一村一品」以来無数にあって、無数にあっても反省も検討もされることはなく、「ものづくり日本」がまかり通っている。
食品の分野も、税金を投じては、生まれては消えがくりかえされている。
ま、政府が旗を振るほうへついていればまちがいないし、それに、一見すると、「ものづくり日本」は正しそうだ、ということで、空虚な「ものづくり日本」伝説は続いている。もうだいぶメッキがはがれ批判も増えているが。
なにを書こうと思ったか忘れそうだ。
「貧せざれば鈍す」ということだ。これは坂口安吾が言ったことらしい。
「貧すれば鈍す」という言葉は多くの人が知っているだろう。この言葉は、だいたい「鈍」を見下し軽蔑している。前提に、「貧」や「鈍」は「悪」という考えがある。エラそうなだけで、警句にもなっていない。
だけど、「貧せざれば鈍す」は、警句になっている。
これは、「金持ち」や「持てるもの」は「鈍す」ということになるか。
それでも「鈍」は「悪」のようで気にくわないが。「鋭敏」や「繊細」は、必ずしも「善」でも「正」でもないからね。
しかし、まあ、「貧せざれば鈍す」は、警句になっている。
前のバブルのときは、少しでも権力や権威や金を持った日本人はどうなるかということがよくあらわれていたが、この言葉がピッタリだ。ようするに「貧せざれば鈍す」は傲慢になるということだ。
とくに、会社の階級で言えば主任や係長クラスに相当する小権力や小権威や小金を持ったぐらいで傲慢になる姿は、「よッ、バブリー」と声をかけたいほど切なく醜悪だ。そんなことが、それより上のクラスの、さらに強力な「鈍」を支える。小ドン、中ドン、大ドンの階層構造。昨今のバブルでも見られる。
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