「食べるたのしみ」「食事のたのしみ」「料理のたのしみ」。
牧野伊三夫さんの『かぼちゃを塩で煮る』(幻冬舎)の発行日は、一昨年2016年12月15日になっている。その頃、著者からいただいた。
もう一年以上過ぎているが、まだこのブログで紹介してなかった。
あまりにも内容が豊かすぎて、考えることが多く、考えているうちに紹介を忘れてしまった。
先日、下北沢のB&Bの「四月と十月文庫をおおいに語る」で牧野さんと顔を合わせたとき、この本のことが頭に浮かび、牧野さんに唐突に『かぼちゃを塩で煮る』のなかの「アメリカの弁当箱」、よかったです、おれとしては一番よかったです」というようなことを言った。
なにしろトークの準備でバタバタしているなかおれが突然口にしたことなので、牧野さんは「へえ」とか「ほう」という感じで、ほかのことをやっていた。
『かぼちゃを塩で煮る』は、42の短い話と、「はじめに」とあとがきにかえて「楽しみな食事」、そして最後に、解説とはちがうが牧野さんのことを書いた鈴木るみこさんの「眺めのいい食卓」が収まっている。
「アメリカの弁当箱」は、600数十字ほどの短い文章で、「台所では、何本かある包丁のなかで100円で買った包丁が主役になっている」で始まる最初の段落が長い。次の段落は、「日々の調理は、だいたいこれで間に合っていたのだが、少し前にチーズ切り専門の包丁を購入した」という話で、ここまで、6割強を占めている。
最後の段落が「我が家ではしばしば、プロセスチーズを使った手軽な前菜で飲みはじめる。そのひとつが「アメリカの弁当箱」と呼ぶものである」というぐあいだ。
そのあとを最後まで引用してしまおう。
「ただ皿にプロセスチーズとハムとリンゴとパンを切って皿に並べただけだが、四つの組み合わせは実にすぐれていると思う。もうずいぶん昔、学生時代にアメリカから帰国した友人に、向うの学校では弁当にこの四つをハンカチに包んで持っていくのだと聞き、スケッチの折などに真似て持っていった。なかなかおいしいので酒の肴にもして、いつしか「アメリカの弁当箱」と呼ぶようになった。皿からつまんで一口ずつ順番にかじっていくと、口のなかで混ざり合い、絶妙なハーモニーが生まれる」
食のたのしみに関するエッセイはたくさんあるけど、「食べるたのしみ」「食事のたのしみ」「料理のたのしみ」がすべて上手に盛り込まれたものは少ない。
『かぼちゃを塩で煮る』は、「食べるたのしみ」「食事のたのしみ」「料理のたのしみ」がすべてうまいぐあいに盛りこまれているのだが、「アメリカの弁当箱」は、そういう意味で一番よいとおれは思った。
ありふれたものしか登場しない。道具も食材も、名のあるどこそこのナニナニでなくても、十分たのしむことができる。なんにつけてもそうだと思うが、「たのしみ」は、自分で見つけ、つくりだすものなのだ。
文章も平易で、いわゆる文学的表現的技巧など用いていない。
だいたい「たのしみ」というのは抽象であって、具体が大事だ。ひごろ具体的にたのしんでいないと、こうは書けない。
組み合わせや「口のなかで混ざり合い、絶妙なハーモニーが生まれる」などは、汁かけめしにも通じるが、食べるところまでが料理であるということだ。
いい店、いいモノに頼らなくても、もちろん食べ歩きなどしなくても、いくらでもたのしみはある。
読んでいるとたのしいし、具体的な話だから、やってみたくなる。
ところで、人間は成長しながら、食べるたのしみ→食事のたのしみ→料理のたのしみ、という順番で覚えていく。だけど、これは必ずしも連続してないようだ。
つまり、食べるたのしみを知って、食事のたのしみを知るようになり、食事のたのしみを知って料理のたのしみを知るようになる、とは限らない。
食べ物や飲食に関する著述を読みながら、そのことが気になっていたし、『かぼちゃを塩で煮る』では、「はじめに」から、そのモンダイにぶつかる。
食べるたのしみは、たいがいの人が知っている。だけど、食事のたのしみや料理のたのしみとなると、かなりいろいろのようだ。
料理をたのしんでいる人でも食事のたのしみにはあまり興味がない人もいる。食事のたのしみは知っているが料理はしたくないという人もいる。
食べるたのしみを知っていれば、自然に食事のたのしみを知るかというと、必ずしもそうではないらしい。
「食べる」は生理的欲求にもとづいているようだが、実際の「食べる」には文化が介在する。そのあたりから人間様はややこしい。
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