「右と左」。
昨日「いまの日本じゃ「おれはおれでちゃんとやってきた」ぐらいじゃ、評価されないのさ」と書いたが、正確にいえば、「おれはおれでちゃんとやってきた」を評価する力があまり育っていないというのが、より現実に近いと思う。
全体的包括的視野と分析力に関わることだろうが、根底には消費主義に侵された消費文化の存在があり、権勢力のある消費主義的な言説に左右されやすい状態が続いていることが関係している、と、おれは「分析的」に考えている。
消費主義は、より高い意識の「正」の方を向いているだけで、「正」と表裏の関係にある「負」は、見ようとしない、視野に入れないか、否定や排除だ。
東電原発事故に端を発した「放射能と食」をめぐる動きや発言を眺めていて、ますますそういう考えを強くしている。
いま「放射能と食」をめぐる問題を考えるとき、1980年代からの消費主義の浸透がどういうものだったかは、一つの視点として必要だと思う。
自殺者まで出した「鳥インフル騒動」はなんだったのか、それから「BSE騒動」など、そこにある流れが「放射能問題」にもつながっている。と見るのは、食文化の視点からは、必要なことだろう。
それから、飲食をめぐる、消費文化の視点、生産文化(流通も含め)の視点、生活文化の視点を考えると、なんにつけ、消費文化の視点と生産文化の視点に傾斜しすぎているように思う。
ということではなかった、今日のタイトルは。
「右と左」というのは、四月と十月文庫『理解フノー』のなかにもあるタイトルだが、「放射能と食」をめぐっても、「右と左」というぐあいにわけて見る傾向が強い。それを「切り口」に全体像を探ろうということならまだしも、「放射能」や「食」を政治的なレイヤーで見て、そこで激突している。
ややこしいことに、そこに「右でも左でもない」という、もう一つの「正しい極論」が存在する。「右でも左でもない」ということで、自分は客観的で正しいとする。
しかし、現代において、「右と左」に分別して見ることに、どれほどの意味があるだろう。
もともと、「右翼」とか「左翼」とか「中道」とかは観念的な分類にすぎない。
そもそも、「右」を理解しているのか、「左」を理解しているのか。「中立」や「客観」ってなんだ。
だいたい、「放射能と食」は、政治的なレイヤーだけの問題じゃないだろう。
これだけ飲食の話があふれているのに。
今日のかんじんなことは、これだ。
五十嵐泰正さんの新刊が、中公新書から発売になる。『原発事故と「食」 市場・コミュニケーション・差別』。
去年、いつだったかな、お会いしたときに、いろいろ話を聞いて、おもしろそう~と思っていた。
中公新書の案内によれば。
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2018/02/102474.html
農水産物の一大供給地であった福島は、3・11以後、現在にいたるまで、「デマ」や風評が飛び交い、苦しい状況に追い込まれている。一方で、原発事故と震災の忘却は着実に進行している。本書は、流通や市場の課題、消費者とのコミュニケーション、差別の問題などから、「食」について多面的に論じる。「食」を通して、あの事故がもたらした分断を乗り越えられるのか――。これからの社会を考える試み。
ということだ。
2月22日発売。
大いに期待。
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