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2018/02/05

「素敵なおっさん」は「野暮」な生き方のことなのだ。

パソコンのドキュメントファイルを整理していたら、4年ほど前に書いたテキストが見つかった。これは、長いこと1人で出版を続けてきた方の雑誌に寄稿したものだ。その方が高齢になり最後の雑誌を作るというので書いた。「素的なおっさん」というのは彼のことだが、その文章を適当にまとめ直し、タイトルはそのままに、彼以外にも通じるようにして、ここに掲載することにした。

その雑誌は、これから出るかどうかわからないが、出たら出たときに、出なかったらそれがはっきりしたときに、彼と出版のことについてはここに書きたいと思う。

近年は、よほどネタがないのか、出版社が身内ネタのような本屋や出版をテーマにし、「一人出版社」やZINEとやらを持ち上げ、オシャレなリトルプレスが話題になっている。そこでは、彼の存在など見向きもされないが、彼はそんなものが話題になる前から、働きながら資金を稼いで出版を続けてきた。その熱意、執念? エネルギー、すごいものがある。

彼の出版物は、時代や世間におもねたりしない、彼の生き方なのだ。

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 素敵なおっさんというのは、大衆食堂や大衆酒場のような男であり、横丁のような男だと思う。
 つまり、とても野暮な存在なんですよ。
 おれは近年、「野暮連」を掲げ、コツコツと野暮の増殖を画策してきた。ツイッターのアカウントは「entetsu_yabo」だ。
 野暮というと「粋」と対比されがちだし、「粋=オシャレ」「野暮=ヤボ」というのはヘンだと思うが、そのへんのことは話がややこしくなるから、やめておこう。

 そうそう、ついでだけど、近年何度か関西で仕事をさせてもらって気がついたのだが、関西の「粋」と東京の「粋」は、違いがあるようだ。一言でいえば、東京の「粋」は生活臭さを排除した非日常だけど、関西の場合は必ずしもそうではない。ま、この件を掘り下げていると長くなるから、やはり、やめておこう。

 野暮は、こんにちでは、あまりスマートではないがゆえに「負」の評価をされる傾向の、「雑」で「軽率」で「心意気」のある生き方、というのが、おれの考えだ。
 雑は、ときどき「鈍感」でもある。軽率や心意気は、ときどき「無鉄砲」でもある。そういうのが入り混じる野暮というのは、猥雑このうえない。大衆食堂や大衆酒場、横丁などでは、お馴染の景色だ。

 「オシャレな再開発」は、そんな野暮をトコトン排除してきた。町やひとから、雑で軽率で心意気あふれる関係や生き方を奪ってきた。結果、一見すると、都会は猥雑さの行き場を失っているようだ。
 猥雑さこそ都会の特徴であり、そのエネルギーの源だと思うのだが、年々、アートに文化的に澄ましこんでいる。
 
 スーパーマーケットの売場やスタバのような店やモールのように、いろいろな角度から計算された空間は、イベントとやらも駆使し、町やひとを「心地よく」型にはめこむ。不寛容そのもので、ちょっとの野暮も許容されない。
 それが「心地よい」空間ってことになる近頃のオシャレは、よほど「型」に飼いならされているのだろうか。オシャレに護岸工事が整った川を、水がよどむことなく流れ下るように人びとは過ごす。隅田川や淀川のように、さらさら音をたてることもなく、不気味な大量なカタマリとなって流れてゆく。それが、心地よいらしいのだ。

 義務化された笑顔の労働、小利口そうな気のきいたオシャベリやファッション、「繊細」と称する神経質な空間が広がっている。はみ出しものは、ただちに叩かれる。
 オシャレ化する通りからはベンチが無くなっている。あっても、寝転がることができない「不寛容ベンチ」のつくりだ。酔っ払って終電を逃しても、駅のベンチで寝ることもできなくなった。都会のあちこちでは、子育てや赤子を連れた女性に対する不寛容も広がっているようだ。
 そういう不寛容に一役買っている、近頃のアートや文化というのが、情けない。

 なんとまあ繊細で神経質で美しく、オシャレなことよ。泣き喚く子供などは殺されそうだ。汚れたものは人目のつかないところに圧殺される。駅近くの、ひと一人がやっと寝られるぐらいな空間も、なにやら造形されたアートで文化的なものがしつらえられ、ホームレスは排除される。

 オシャレなブックデザインなどは、労働者の汗まみれの指がふれることはないだろうし、おれのような薄汚れた野暮な人間が、手を触れるのも拒否しているかのような印象すらある。
 じつに、高尚で高踏的で排除的なオシャレなのですなあ。それがまあ、空間の付加価値とやらを生んでいる、ということらしいのだが。アートや文化は、そんなものになったのか。

 少々キタナイぐらい、いいじゃないか、少々マズイぐらい、いいじゃないか、少々バカクサイことしても、いいじゃないか、と声をあげにくい。こういう空気感、これはもう、「心地よいファシズム」というものだろう。

 いや、それは、おれの野暮な見方かも知れないが、そこに機能している細部まで計算されつくしたかのようなデザインや詩文には、都会的な精神や感性の貧しさを感じる。ブラック企業が従業員を煽る、ロマンあふれる「ポエム」みたいなものですよ。鈍感なはずの野暮は、そういうことには、アンガイ、敏感なのだ。

 しかし、ひとは水の流れのようなわけには、いかない。
 ファシズムのようなオシャレがはびこり、「おっさん」であるがゆえに野暮と見られていたおっさんは、うなだれることはない。オ帽子にステッキついて散歩する「オシャレなおじさん」になる必要もない。「ちょいワルおやじ」なんて、けっきょく消費されて終わりだ。
 熱く野暮を貫くことで、素敵なおっさんになるのだ。

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