いまドライバーは、環七朝食風景を見ながら考えた。
夜も眠らない環状七号線が高円寺の東側を走っている。見ておきたいことがあって、朝の8時過ぎにそこへ行った。
車の流れは列車のように連なって動いているが、片方の歩道側の一車線に大型ダンプがずらり並んで停車していた。そのあたりは道幅が広くなっているのだ。
立ち食いそばやが一軒あって、客足が絶えない。
その風景を見に来たわけではないが、時間があったので、そばで眺めていた。
昨年あたりから「ドライバー不足」がニュースになるようになった。もっと前からドライバー不足がいわれていたのだけど、例によって解決する方法はとられず、運送会社やドライバーの「がんばり精神」つまりは過重労働に頼ってきたから、いよいよ深刻な事態になった。
といっても、一般的には、まだあまり深刻に受け止められていないようだが。
ドライバーが不足しているから求人が行われ、統計的には求人が増える。それが景気がよいという判断の指数に使われたりもしている。
ドライバー不足の根は深い。
その労働を長年支えてきた労働人口の多い年齢層が高齢化し引退が続いている。これはまあ、ドライバー業界に限ったことではない。
それから、改善されずにきた低賃金と長時間労働が続いた結果でもあるけど、これも他業種に共通してある。
労働力不足を外国人労働者とAIの導入で対策する動きもあるが、ドライバー不足は、それが難しい。
もっと根っこには、「優劣観」がある。仕事や労働に対する優劣観だ。外国人労働者となると、人種差別に近い人種に対する優劣観がある。
バブルのとき、「3K」なる言葉がはやり肉体労働系は嫌われ蔑視も助長され、対して、情報やメディア周辺のクリエイティブな仕事がもてはやされた。
「車夫馬丁」という差別用語があるが、肉体的な仕事は劣った賎民、知的な仕事は優れた貴族という優劣観は、大昔から根強い。
このあいだ、ホリエモンが「『「なんで保育士の給料は低いと思う?」低賃金で負の循環』(朝日新聞デジタル)という記事に対して、「誰でも出来る仕事だからです」とコメントしたことが話題になった。
「「そんなに言うなら一か月保育士をやってみて」「国家資格が必要だから誰にでも出来るわけじゃない」といった批判が殺到」したとのこと。
これについて、ホリエモンはあとで「誰でも(やろうとしたら大抵の人は)出来る(大変かもしれない)仕事」が真意だとテイネイな説明をしている。
どちらも仕事(労働)について、何か考え方がズレているように思う。
どんな仕事でも、その仕事が存在するのは必要とされているからだという考えが欠けている。もっといえば、社会全体が動いていくために必要とされている機能があって、その機能を受け持つ人がいて全体がまわる。
ホリエモンの考えは、いわゆる「新自由主義」で、社会のことも「市場原理」まかせなのであって、「保育」をどう社会の機能として位置づけるかのことではない。その意味では、「そんなに言うなら一か月保育士をやってみて」「国家資格が必要だから誰にでも出来るわけじゃない」といった意見も、イマイチだ。
おれは以前(1970年代)に90人規模の認可保育園を立ち上げて理事もやったりしたが、当時から保育についての議論は不十分なままだ。少子化の対策に腰が入らないことも、それと関係あると思う。
それはともかく、「誰でも(やろうとしたら大抵の人は)出来る(大変かもしれない)仕事」だけど、やるひとがいるのだから給料は上がらなくてもそれでいいのだ、という考えは、わりと普通になっている感じがある。
新自由主義の浸透で、社会的な全体的な機能のことなどは視野の外になってしまったようだ。
それにつれて、視野の外になってしまった労働がある。
さらに、消費主義は、その傾向に拍車をかける。消費というのは「正」を求める。「正」だけを選ぼうとする。「負」は回避や非難か否定の対象にすぎず、誰かに押しつける。「正」も「負」も引き受ける文化は育たない。
そこに優劣観も絡んで、この保育士とドライバーの問題は、共通する点があるようだ。
バブルのときもそうだったが、今回のバブルでも、「地方創生」がいわれ、その目玉に「文化事業」がすわっている。なんと、文科省は「稼ぐ文化元年」とかで予算もたくさんつけるそうだ。
あのバブルのときの、文化や芸術の貴族たちの大騒ぎを思い出す。
労働者の労働と生活は視野の外におかれ、国や自治体がふりまく予算にたかって、美しく楽しい文化的で知的なキレイゴトに花が咲く。
労働者は朝から立ち食いそばを食って「がんばる精神」でやるしかないのか。貴族たちに、「もっと頭を使え」「もっといい仕事をしろ」「高い志を持て」そうすれば生き残れる、なんて言われながら。
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