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2018/03/26

東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」65回目、新宿・石の家。

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今日は、前のエントリーでの予告をはずして、この件だ。

毎月第三金曜日の連載、今月は16日の掲載だった。

すでに東京新聞のWebサイトでご覧いただける。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2018031602000190.html

いつごろから始まったのか、少し前に知ったのだが、同じ東京新聞のWebサイトでも、スマホ閲覧用に編集されているらしいものもある。こちらは、写真も大きいし店の外観も載っている。
http://news.line.me/issue/oa-tokyoshimbun/7be7f59846c6?utm_source=Twitter&utm_medium=share&utm_campaign=none&share_id=NPf21190802021

今回は、新宿の石の家だ。本文にも書いたが、ここは上京した1962年の秋に初めて入ったと記憶している。

餃子のうまい店があるということで、誰かについて行ったのだと思う。それまで、この近辺に一人で行ったことがなかった。

新宿駅南口の甲州街道を御苑の方へ向かって下った、そのあたりは、夜は近づく気がしないほど、不気味な大人の町という感じで、とにかく歌舞伎町よりこわい感じの一角だった。

当時の東京の木造家屋は、どこも煤煙で汚れたような色をしていたが、この一角は、とくに薄汚れ感があり、建物も粗末なバラックに近いものがひしめいていた。夜はネオンも少なく、薄暗く、アンダーグラウンド感が半端じゃなかった。

石の家は、あたりではマシな建物で、普通の二階屋だった。一階のカウンターは、いつも一杯で、連れだって行くと二階に上げられた。民家の和室の部屋割にテーブルが置いてあって、そのどれかの部屋で、他の客と一緒に食べる。というぐあいだったと記憶している。

ふりかえって気が付いたのだが、そのときから、やきそばを食べ続けなのだ。行くと、ほぼ確実に、やきそばを食べていた。こんなに同じ店で同じものを食べているなんてことはない。タンメンもうまくてよく食べた。2、3人で行くと、やきぞば、タンメン、餃子は定番だった。

いわゆる「柄のよくない男たち」が多い街であり店である、と見られていた。甲州街道をはさんで反対側に場外馬券売り場があって、そこの男たちが、街頭や店にたむろしていたからだ。当時は、競馬を犯罪の温床のように見る向きもあり、ま、ある種の見方からすれば、まるで根拠のないことではなかったが、偏見も強かった。

とにかく、ここのやきそばは、ときどき思い出しては、食べたくなる。

ほかの一品料理もうまいのだが、いつもやきそばが優先されてきたので、あまり種類を食べてない。

焼酎が以前からキンミヤだった。それがキンミヤであると知ったのは、比較的新しいことで、いつごろだったか、1990年代始めごろだろうか。それまでは銘柄など気にせずに、ようするに普通の焼酎と思って飲んでいた。いまだって普通の焼酎には違いないはずなのだが。新宿でキンミヤは、ここ以外は知らなかった。

店舗は、前の薄汚れた木造の建物から、今のビルになる前があったような気がするのだが、あるいは前の建物をリニューアルしていたのかも知れない。とにかく、今のビルになる前があったような気がするのだが、思い出せない。そのカウンターに座ると、店の人も競馬をやっているし、競馬好きの男たちの面白い話が聞けた。

昨年末、中原さんとここで飲んだ。中原さんとは、前にもここで飲んでいる。彼も若い頃から利用しているのだ。あれこれ料理をつまみ、やっぱりやきそばになった。

今回は3月早々に行ったのだが、店内が一新されていた。2月の末にリニューアルしたのだそうだ。

ビルの外観のような、真っ白の店内、テーブルトップまで白。石の家の象徴のような昭和なオヤジ猥雑感が完全に払拭され、いまどきのオシャレなカフェのような……。が、しかし、煙草プカプカのオヤジカラー前面の男たちであふれていた。

一時、70年代だったと思う。東口のお多幸の前に出店したことがあったが、いつのまにか無くなった。

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