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2018/04/13

『dancyu』5月号「美味下町」ではやふね食堂を取材した。

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去る6日発売の『dancyu』5月号は「美味下町」という特集で、おれは森下の「はやふね食堂」を取材して書いている。森下は、もとは深川区だから深川と言ったほうが通りがよいかも。

1991年ごろ初めて行った食堂で、おれの最初の著書95年発行の『大衆食堂の研究』には、はやふね食堂について「昭和の初めのころには、 当時の東京市内の飯屋の一五パーセントは深川にあったのだそうな 。だけど戦争をさかいに、 田舎の世田谷区や杉並区の方に移住するひとも多く、激減。で、 伝統あるこの地で、食堂といえば、ここだね。」と書いてある。

森下3丁目といえば「ドヤ」というイメージは80年代ごろから次第に薄れていったけど、戦前から屈指のドヤ街だった。はやふね食堂の裏はドヤが並び、この界隈には、ほかに3軒ほど食堂があったらしい。いまはその面影もない。住宅と小さな町工場が入り混じってひしめきあっている。

すぐ前に深川小学校があり、はやふねのご主人は昭和19年早生まれで、昭和18年遅生まれのおれとは同学年になるのだけど、ここで生まれた。深川一帯が空襲で焼け野原になったときは、長野へ疎開していて難は逃れた。

その焼け野原にもどってきた一家の母が、焼き芋やかき氷を売る店を始めた。それが食堂へ「進化」した。

築地が近いので魚は築地へ買い出しに行く。「野菜は?」と聞いたら、「引き売りと、近所のスーパー」と。「え、このへんまだ引き売りが来るんですか」と聞くと、「トラックでね」。昔の「引き売り」という言葉をそのまま使っているが、そのトラックは、朝のうちに葛西方面の農家で直接仕入れ、売ってまわるのだそうだ。いかにも東京の東の下町らしい話だ。

深川で生きた母の手料理が引きつがれている食堂。「特別の食材は使っていないし特別のことはしてないと言う」だけど「ありふれたものをおいしくつくる熟練の味」がある。

この前の見開きページを、山本益博さんが書いている。門前仲町の「ふく庵」の天ぷらだ。山本さんは「私は特価品には興味はなく、いつも心がけていることは特上品の批評である」と、いかにも彼らしいことを述べている。

で、そのページをめくると、「特価品」ではないが「特上品」でもない普通の食事のはやふね食堂になるというわけで、下町の懐の深さを感じますね。

写真は、「料理写真界のキムタク」こと木村拓さん。

また今号の写真には、久しぶりに、久家靖秀さんが登場。浅草の「鮨一新」を撮影している。

ま、手にとって見て下さい。

最後の写真は、はやふね食堂の40年の糠床。

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