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2018/06/10

日常食と食堂の楽しみ。

2018/06/03「Hanakoさんの冒険。スノッブからオムニボアへ?」あたりから考えているのは、「日常食と食堂の楽しみ」という感じのことだ。いろいろ調べているうちにわかったことは、1980年代後半から「B級グルメ」がにぎやかだった割には、日常食の楽しみや食堂の楽しみについて、まとまった本がない。

拙著『大衆食堂の研究』が、必ずしも日常食と食堂の楽しみをテーマにしていたわけではないが、「食堂」を対象にした本邦初の一冊といってもおかしくない。ということは、ひとに言われて気が付いた。

なにしろ自分の興味を興味のままに書いたもので、書くとき、確かに食堂の歴史について書いたものがなくて苦労したのは覚えている。当時はインターネットもなかったから、国会図書館と東京市政会館の図書室などへ足を運んで一次資料から探したのだった。

もともと日本の文化的土壌には「必要」を見下す「美的性向」があり、「必要」から離れるほど「文化」だの「カルチャー」だの「芸術」だの「アート」だのということになった。

日常食や食堂は「必要」を満たすための、いわば「低級」という位置に立たされていた。日常食を「エサ」よばわりしたり、食堂は労働者のような下賤なものたちが行くところという見方があった。

1980年代ぐらいから、そのあたりの事情が微妙になってきた。その事情は省略するが、80年代後半から盛んになるB級グルメは、日常食や食堂を楽しんでいたわけではない。「必要」をステージに、「必要」とは距離を置く楽しみ方だった。その意味では、根本的な変化はなかった。

一つは数をこなすゲーム、一つは「究極」や「職人技」など「高度な文化」にふれ評価する選民意識の満足(これはA級グルメの廉価版といえる)など。ほかに、レトロブームや昭和ブームなどが絡むが、とにかく、消費に忙しく、「日常食と食堂の楽しみ」の探求や創造には向かわなかったのがB級グルメだ。

ところが、いつごろから、どういう流れか、B級グルメとは違うあたりから、日常食の楽しみや食堂の楽しみを追求したり創造する人たちが増えてきたし、日常食の楽しみや食堂の楽しみを語る人たちが増えてきた。もともと、「低級」な生活だろうと「高級」な生活だろうと、それぞれの楽しみがあったのだけど、ようやっとそのことについて語られるようになってきた。

まだ確かなことはいえないが、80年代から盛りあがるイタリアンやエスニックの流れ、エコロジー思想の影響の広がりの流れ、それらと関係があるかも知れないが、フランス料理を最高の位置に置いてきた価値観(これは料理に限らない全体を貫いていたモノサシ)がそれほど力を持てなくなった流れ、ほかにもあるかも知れない、いろいろな大きな流れが、日常の食の実践の場にあふれるようになったのだ。いわゆる、多様化や多元化。

社会的、経済的、文化的などの上下や優劣など関係なく、味覚のあるところ快楽あり、という感じの勢いもあるようだ。とても、かつてないほど、民主的で自由で公正ですね。

という、これは備忘メモです。

11日追記 「必要趣味」と「自由趣味」

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