食べる、客体と主体。
「料理評論」なるものも含め、料理の批評は存在するが、その方法というのは、とくに研究されてこなかったし、あまり明確ではない。
ただ、世の中には、おれもやっているけど、飲食店などを取材して、料理や食べ物あるいはサービスや店などについて、どう書くかはともかく、書く仕事をしている人はいる。
その書かれたものを集めて傾向や特徴を知ることはできる。ヨーロッパには、そういう研究をして本にしている学者もいる。
日本でも近頃は、ぼちぼちやっている研究者がいるようだ。その一端はインターネットにも公開されていて興味深い。
それらを拝見しているうちに、「書評」なるものが気になった。おれもちょっとだけ「書評」らしきものを書いているが、対象が飲食店と本の違いはあっても、かなり似ている感じがする。
では、書評の方法は存在するのだろうか。それが存在すれば、飲食に応用できるのではないか。
というあたりを、目下のところウロウロしている。
とにかく、飲食についていえば、対象となるブツがある。ま、「客体」というのだな。それを飲み食いする「主体」がいる。
この「客観的関係」または「科学的な関係」を把握できると、科学的な方法にたどりつくハズ。リクツでは、ということになる。
ここでモンダイなのは、客体の質と主体の質の関係だ。
これは本と書評に例えると、わかりやすい。料理の場合は、食べるとなくなってしまうから面倒だ。
客体の質がよくても、主体の質がそれより低い場合。
客体の質はよくなくても、主体の質がそれより高い場合。
どちらもよい場合。
どちらもよくない場合。
ということがあって、これは本の場合は、本と書評を読めば、けっこうわかる。ま、自分が「わかる」能力があればだが。イチオウ、そうなのだ。
料理の場合は、難しい。そこで、たいがい、感覚的な話に逃げて、どう、私の感性って素晴らしいでしょ、てなことで誤魔化して、これがけっこう効くのだ。それは、読者のリテラシー能力の問題でもある。
書評の場合でも、かなりおかしな書評がまかり通っていることがあるが、そのへんはあとでも検討が可能だ。この評者に、この本はレベルが高すぎるよ、まるで消化できてない、たとえばここんとこだけどね、とか、ああだこうだ言える。
だが料理の場合は、同じものを一緒に食べでもしなければ、検証が難しい。
難しくても、少しでも科学的にしなくてはならない。いま、そのあたりには、きているようだ。これから、さらに進むだろう。
批評が科学的でなければ、おかしなことがまかり通り、拡散する。いま世の中がオカシイといわれるのは、アンガイ飲食の批評や書評が、科学的ではなく特定の人たちの感覚に左右されているからではないか。とまではいえないが、批評が狂えば、大いに道を誤る。
「味わう」ことは、メディアリテラシーでもあるのだな。
今日、いろいろな資料を見て考えた感想でした。
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