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2018/07/24

東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」68回目、高円寺・天平。

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先月6月15日掲載のものだ。もちろん、すでに東京新聞のサイトでご覧にいただける。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2018061502000181.html

天平は、「高円寺定食物語」で取材し、このブログでも、2018/04/28「「高円寺定食物語」の天平。」にも書いているから、そちらをご覧ください。

この連載に書くため、というより、高円寺に行ったついでに天平のおやじさんは元気にしているかなと寄ってみて、この連載に載せることを思いついたのだった。

載せられるときに載せておかないと、という思いもあったし、「高円寺定食物語」では、「定食」がテーマだったので、さば味噌煮定食だったが、ロケハンで食べたオムライスが印象に残っていたからだ。

「玉子焼きの包みがはちきれそうなほどふくらんでいる」と書いたが、わずかに小さな破れがあるほどパンパンにふくらんだオムライスは、ひとつの熟練とうまさを示しているのではないかと思い、そのことを書いておきたかった。

オムライスといっても、近年は「フワトロ」なるものが人気だったり、いろいろだ。いろいろナントカ風があってよいが、おれが食べてきたオムライスは、このはちきれそうにふくらんでいるのが、見た目も魅力的であり、味もよかったという気がしている。

かかっているソースについて、メンドウなことはよいのだが、単なるケチャップのみではなく、自家製のソースだったり、市販のケチャップに何かをまぜるなど、それぞれの工夫も多いようだ。

作り方も、すべてを詳しく見てないが、天平のばあいは、ふたつの火を使い、ひとつでめしを炒め、ひとつで玉子を焼いていた。

とにかく、玉子焼きのおかげもあってか、オムライスは、なぜか祝祭気分が盛り上がる。

それはそうと、また天平へ行こう。

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2018/07/23

食の実践と卓越化。

ここ3カ月ほどのあいだに、ネットで読んだ食に関する論文関係で、いちばん面白かったのが、これだ。

三田社会学第20号(2015)に掲載の村井重樹「食の実践と卓越化 ――ブルデュー社会学の視座とその展開――」

「本稿の目的は、食の実践と卓越化との関係を、正統化の様式に着目しながら考察することである。言い換えればそれは、人びとによって日常的に遂行される食の実践が、われわれの社会のなかで、いかにして卓越化へと寄与し、またそれがいかなる正統化の様式に基づいてなされるのか、を探求しようと試みるものである」「この目的からして本稿は「食の社会学」と呼ばれる領域に属するものである」

と、著者は、「はじめに」で学術的に述べる。学術的論文って、ほんと、メンドウクセエ書き方をする。

「食の実践と卓越化との関係を」「ブルデュー社会学の視座を基点に考察する」。

「ブルデューによる食の実践の把握を、卓越化と正統化の様式に基づき概観する。次に、フランス料理がそうした食の実践の背景を構成していることを確認した後、文化的オムニボア論の問題提起に目を向け、それが食の分野にも及んでいることを指摘する。そして、ジョンストンとバウマンの研究(Johuston and Baumann 2007;2010)に依拠しながら、現代社会では、ブルデューとは別様の卓越化と正統化の様式が、その重要性を増しつつあると提起する。最後に、以上を踏まえ、ブルデュー社会学の視座から、食の実践をめぐる今後の探究課題について検討する」

てなぐあいで、知らない先生方の名前が出てくるが、ようするに、この「食の実践」には食の生産や流通のことは含まれていない、おれたちの台所と食事が舞台なのだ。

で、ブルデュー先生は、食の実践と卓越化を、どう把握していたかというと、「必要性への距離」だというのだ。

ここに「自由趣味」と「必要趣味」という概念が登場する。

「必要性への客観的な距離が大きくなるにつれ」「自由趣味」は拡大し、「必要性を克服し支配する力の肯定であるこの意味での生活様式は」「日常的利害や差し迫った必要に支配されている人々、そんな人々にたいして正当な優越性をもちたいというもくろみをつねに含んでいる」

で、まあ、飲食の世界でよく見受けられることだけど、こうした自由趣味は、「必要性から生じたがゆえに美学の次元へ向かおうとする、したがって通俗的なものとして形成された必要趣味との比較において、はじめて自由趣味として現われることができるものなのだ」

そうなんどよなあ、生活から離れるほど、芸術的だとか文化的だとかいう感じ、ありますね。必要性に迫られ支配されている人たちに対して優越性をもちたいというもくろみ、なにやら奥ゆかしげな「美学」がありそうな文学的芸術的装いの飲食の話に、けっこう見られますよね。あの、気取った。

ここに「ハビトゥス」なる概念が登場する。ブルデューによれば、経済的必要性から解放された「無償」や「無私」へと向かう美的性向は、「世界のブルジョワ的経験の原理」である。こうした性向、すなわちハビトゥスを身につけた人びとは、差し迫った必要性に囚われないことで、ゆとりや洗練性を生み出し、他者に対して自らの卓越性を表現しようとする」

いるいる、いますねえ。

だけど、ハビトゥスは、そういう、ゆとりある人たちの美的性向をさすだけではない。

「ハビトゥスは、ある特定の集合に結びついた生活条件の所産であり、それゆえに、生活条件の差異に応じて、人びとの身につけるハビトゥスは相異なったものとなる。ブルデューにしたがえば、趣味とはハビトゥスであり、そうした生活条件の差異が、「自由趣味」と「必要趣味」の対立を導き出すのである」

「ハビトゥスと化した趣味は、他人の趣味に対する耐えがたさや拒否反応を呼び起こすものなのだ。そしてそれゆえに、類似した生活条件のもとでハビトゥスを身につけた人びとは、互いに結びつき合う一方で、異なるハビトゥスを身につけた人びとから自分たちを区別しようとする。ブルデューにしたがえば、正統性はこうした卓越化のゲームのなかで生じるのであり、その獲得は「ある任意の生きかたを正統的な生存様式へとしたてあげて、他のあらゆる生きかたを恣意的なものとしてしりぞけようとする」ことによって達成される」

あるある、ありますね。これって、わりと「意識高い系」とか「文化系」とかにも見られるね。もう、メディアには、私は正しい、という面白くでもないメッセージがあふれている。

で、ブルデューは、こうした視座から食の実践を分析しているのだが、「ハビトゥスが鮮明に表れる食の領域が、ブルデューにおいては、文化的実践の一類型として、しかるべき位置を与えられているように見える」と著者は述べる。

ブルデューは先の対立軸を、食の実践にあてはめる。

「量と質、豊富なごちそうと軽い料理、実質と形式あるいはマナーといった対照は、必要性にたいする距離の違いから生じる次の対立と重なりあっている。つまり最も栄養があると同時に最も経済的であるような食物へと向かう必要趣味と、庶民の気取らない食べかたとは反対に、形式やマナーが機能の否定としてはたらくことを求める様式化」つまり「自由趣味」との対立である。と。

「すなわち、必要性への距離が大きくなればなるほど高い正統性が付与され、小さくなればなるほど正統性は低くなっていくのである」

「ブルデューは、自由趣味と必要趣味の対立軸を見いだしつつ、そこに卓越化の論理が介在していることを示すことによって、それぞれの社会階級に対応する食の実践を鮮明に出したのである」

こうして著者の村井さんは、「3、ガストロノミーとしてのフランス料理」で、フランス料理にブルデューが指摘した卓越化と正統化の様式を確認する。

この論文が、今日的な意味で面白くなるのは、このあと「4、食の実践と文化的オムニボア」からだ。

文化的オムニボア論は、「「スノッブからオムニボアへ(From Snob to Omnivore)」と言われるように、ハイカルチャ/ローカルチャーと支配階級/被支配階級との一義的な対応関係が現代ではすでに明確なものではなくなり、とりわけハイカルチャーを消費することが卓越化と直接的に結びつくものではなくなったと主張される」

「今日の主要な社会的区別=卓越化(social distinction)は、ハイブラウか、ローブラウかというよりもむしろ、社会的多様性の問題なのである」

ってことで、食の実践と卓越化について、とくにオムニボア論が、なかなか面白いのだが、原文を読んでちょうだい。検索で、PDFをダウンロードできる。ほんと、インターネットは、いいねえ。

おれは、日本のばあい、「ハイブラウか、ローブラウかというよりもむしろ、社会的多様性の問題なのである」の「むしろ」は、ちょっと天秤のかけかたが違うような気がしている。

日本の主流は、多様性に対して寛容でもなければ理解もあまりない。これは、個人主義や人権の土壌とも関係するだろう。ハイブラウとローブラウをめぐっては、ハイブラウ側からの抑圧も強く、ハイカルチャーの消費が卓越化と結びついているかのような権威ものさばっている。それと、社会的多様化が、拮抗している感じだ。

が、しかし、飲食の分野は多様化は、けっこう面白いぐあいに進んでいる。「民主化」は、飲食からか。

ま、どのみちおれは、大衆的生活様式の「気取るな、力強くめしを食え!」だけどね。

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2018/07/19

「高級化」と「大衆化」。

前のエントリーでは、最後のほうで、『美食の文化史』からの引用がある。

「何世紀にもわたって綴られるガストロノミーの連続ドラマの粗筋は、料理上手なおかみさんと、考えるプロの料理人の間の絶えざる闘いだ。この痴話げんかは、よくできた冒険小説と同じく、さんざん仲違いしたあとはめでたく結婚して幕、というわけだ」

これは、日本のばあい、それほどうまくいっているわけではない。というのも、日本では、圧倒的に、支配階級に隷属するプロの料理人が力を持ち、それは残っている文献によくあらわれているが、日本の「料理上手なおかみさん」たちはフランスやイギリスのように料理に関する書き物を残す力もなかった。

そういう意味では、「絶えざる闘い」は、やっと近年になって「日常的」になったといえる。「おかみさん」たちだけに限らず、「料理上手」のシロウトたちは、プロの料理人のご託宣から解放されつつある。そして、プロの料理人がめざす方向は、かつて圧倒的な力を持っていたプロの日本料理・フランス料理・中国料理に縛られない。

その前哨戦とまではいえないかもしれないが、大正期には、飲食店を舞台に、高級化と大衆化が入り乱れた。

明治期には下賤の者には手が届かなかった西洋料理などの高級料理は、大正期に大衆化し普及定着する。いわゆる「洋食」などがそうだ。

一方で、もっぱら屋台営業で普及し下賤の者の食べ物だった、蕎麦や寿しや天ぷらは、大正期には「座敷料理」として高級化し、いつのまにやら「日本料理」の伝統のような顔をするようになった。

生まれたばかりの昭和初期の大衆食堂では、この高級化と大衆化の舞台になった。つまり、「和洋中なんでもあり」のスタイルができあがった。

そこにどのような「絶えざる闘い」あったかは、まだ十分に解明されていないが、昭和初期の文献を見ると、少しは察しがつく。とにかく、サラリーマンを含めた、とくに都市部の新しい民衆である大衆が、その受け皿になって、「高級化」と「大衆化」が進んだ。

昨今、「高級化」と「大衆化」それから「絶えざる闘い」は、新しい段階に入りつつあるようにおもう。

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2018/07/17

100年‐大正期‐ベルクソン‐美味の文化。

今から100年前は1918年で、大正7年。この年は、第一次世界大戦が終わった年でもあり、東京や大阪や地方都市に公営の簡易食堂が生まれた年でもある。

簡易食堂は「苦学生」や労働者を主な対象にしたもので、これが設立された背景には、やがて「大衆」という言葉が生まれ、それが昭和の初めには流行語にまでなるような、都市の新しい民衆の急増がある。そして、昭和初期の「大衆食堂」の誕生につながる。

それは明治の日露戦争からのちの都市の工業化と農村の疲弊が、第一次世界大戦でさらに進行したことによる。つまりは、民衆レベルの「近代化」は、この頃が一つの転換点だといえるだろう。大正12年の関東大震災は、東京の江戸の名残りを一掃する破壊力があって、生活や風俗も含めあらゆる面で「近代化」が進行したのだ。

とにかく、「大正」というと「デモクラシー」であり「モダニズム」だ。民衆史としては、明治維新より大正に注目したい。ってことで、去年あたりから、「大正」が気になっている。気になって、いろいろ調べているうちに、いろいろおもしろい発見があるのだった。

松崎天民さんという人がいた。食通史や食文化史に関心がある人ならたいがい知っているだろうが、京阪や東京などの「食べある記」シリーズで有名だが、もともとは新聞記者で、時事や世相について、いろいろ書き残している。

雑誌『新日本』大正4年11月号に「大正世相私観」を寄稿していて、これがおもしろい。大正になってからの新しい動きと、展望についてふれている。「カチューシャの唄」「寄席芸衰退の現象」「活動写真と連鎖劇」「新傾向と新流行」「大正芸妓が生まれた」「出版界の暗遷黙移」「野次馬政治の傾向」「科学方面の新消息」といったぐあいだ。

どれも現代に通じることがあっておもしろいのだが、「カチューシャの唄」で、このようなことを書いている。

「政治家は大正第一次の政変を以て、「大正史」の巻頭を飾るであろう。思想家はオイケンやベルグソンの輸入を以て、「大正史」の第一ページを彩るであろう。法曹界は海軍収賄事件を以て、「大正史」の劈頭に置くであろう。その他、桜島の噴煙と云ひ、秋田の震災と云ひ、桂公の薨去と云ひ、大正に入ってから僅に四年、過ぎ行く月日は短くても、此の四年間には種々の問題や出来事が、私達の日常生活にまでも、非常な勢力で湖の様に漲り寄せて来た」

いま「大正政変」を語る人は少ない。海軍収賄事件、桜島噴火、秋田の震災、いまでも同じようなことが続々と起きているが、対応に改善が見られないのは、やっぱり日本人は忘れるなといいながら忘れやすいのか。

知見の積み重ねは、どこへやら、いつもゼロからのスタート。まあ、だいたい、知見なんか大事にしてないねえ。たかだか自分の好き嫌いは大事にするけど。

それで、「思想家はオイケンやベルグソンの輸入を以て、「大正史」の第一ページを彩るであろう」におどろいた。そうか、ベルクソンは、そうだったのか。この知見、忘れるわけにはいくめえ。

『美食の文化史』(ジャン=フランソワ・ルヴェル著、福永淑子・鈴木晶訳、筑摩書房1989年)には、ベルクソンの著書から巧みな引用がある。

著者は「メニューはどれも修辞学の演習」と述べたりしているのだが、メニューや料理書や文献などに見られる美味の感覚と言葉の機能などに関して述べているところに、それはある。

ベルクソンは、代表的な著作『時間と自由』第二章(1888年)に、「言語が感覚に及ぼす影響は、人々が一般に考えるよりもずっと深い。言語は我々に感覚の不変性を信じさせるのみならず、時折、経験済みの感覚の特性を誤らせもするだろう。かくして、私が美味だと評判の料理を食するとき、人々が表明する称賛に満ちたその名称が私の感覚と意識の間に入りこんでしまいその料理が好きだと思いそうになる。ちょっと注意すれば、その反対であることがわかるであろうに」と書いているのだそうだ。

いやあ、好き嫌い大事な人たちは気をつけよう、ね。

そして、著者は、この引用のあと、こう書いている。

「ベルクソンは、「美味なりと評判の料理」がありふれた味、あるいはいかなる風味もないことさえあるケースをとり上げている。そういうとき、人は仕方なく、その「繊細さ」、「軽さ」を称賛するだろう」

あははは、「繊細」や「軽さ」をほめ言葉と思い込んでいると、とんだことになりそうだ。

で、ここで著者は、「華麗な料理のことばの扉の後にある名もない大衆の料理」を見つけることの難しさや、「普通の料理、「草の根」の料理芸術」にふれながら、こう結ぶ。

「何世紀にもわたって綴られるガストロノミーの連続ドラマの粗筋は、料理上手なおかみさんと、考えるプロの料理人の間の絶えざる闘いだ。この痴話げんかは、よくできた冒険小説と同じく、さんざん仲違いしたあとはめでたく結婚して幕、というわけだ」

この本の邦訳タイトルは『美食の文化史』だけど、おれは「美味の文化史」のほうがよいような気がしている。

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2018/07/13

「芥川賞候補作盗作疑惑騒動」ってやつ。

こういうことに、あまり関心はないのだが、ちょっと気になったこと。

先月の18日に、文藝春秋社が主催する『第159回芥川龍之介賞』の候補作として、北条裕子の小説『美しい顔』を選出してから、どうやら、騒ぎになったらしい。

この作品に、「東日本大震災から半年後の2011年11月に出版されたノンフィクション作家・石井光太氏の『遺体 震災、津波の果てに』に似た部分が複数ある」というのだ。

それで、ほかの作品との類似もあるとかないとかの話も湧きだし、「専門家」な人たちがアーダコーダ言って、ま、出版界というのか文学界というのか、そのあたりでにぎやかなことになっている。

おれは、文芸趣味はないし、出版界とはビジネスで付き合いがあるが、それ以上のものはない。この問題で誰かと話し合うようなこともなかった。問題をちゃんと追いかけているわけじゃない。そういう低いレベルでザッと眺めていると、それなりにおもしろいこともある。

ひとつは、東京スポーツのサイトに、7月11日の掲載で、「【芥川賞候補作盗作疑惑騒動】北条裕子さん謝罪も…専門家は「新人賞取り消しだ」 」とあったことだ。
https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/entertainment/1059466/

見出しから煽っていておもしろいが、いまやスポーツ誌の扱う分野は、芥川賞のようなハイカルチャーにまで及んでいるのかとおもった。

いつごろからか、1990年代になって顕著になってきたような気がするのだが、スポーツ紙と一般紙の境が、とくにスポーツ紙側からの越境で、混ざり合うようになってきた。

スポーツ紙独特の、スキャンダルな視点や野次馬的な切り口は、気取った対象を丸裸にするような勢いがあって、なかなかおもしろい。

そして、今回の問題そのもののおもしろさは、そういうスポーツ紙のネタとしても耐えられるおもしろさがあるということだろう。

まさに「騒動」であって、レベルの高い議論にならない、出版界や文芸界の土壌というものが、誰かがもっともらしいことをいうたびに、あるいは関係する出版社が何かをするたびに、あきらかになっていく。

それぞれ、この問題をネタに出版や文芸あたりの業界内で、いいポジションをとるのに一生懸命という感じが、よく見えてきた。

「小説とは何かを巡る議論へと進展か」なーんて話もあるけど、けっきょくそのレベルの範囲のことなんだな。ようするに日頃から、「オリジナルとは」「クリエィティブとは」とか「真実とは」といったことに対しては、関心が低いのだ。

これは、いわゆる「福島」と「放射能」をめぐる「騒動」にも共通していて、お互いに議論を通して現在のレベルより高いレベルに到達しよう(つまり成熟していこう)という、「意欲」というのかな、たぶん「思想」が、ない。

ただただ業界内的な自分の立場の「正しさ」に拘泥する。その「正しさ」を強化するチャンスでしかない。

ま、おれの印象としては、例外もあるが、大勢は、そんな感じなのだ。東京スポーツが「芥川賞候補作盗作疑惑騒動」とやったのは、わりとトゥルースかもよ、と、ポスト・トゥルースの時代をかみしめる。

そして、やっぱり、ノンフィクションにせよフィクションにせよ、無名の民というのは、普通に生きているうちは「個」として見てもらえず、災害などにあってひどい目にあって初めて、文芸界隈から恰好のネタとして関心を持ってもらえる存在にすぎないのだな、ということを、またまたかみしめるのだった。

弱い立場の「当事者」は、メディアで発言したり本を出版したりできる「特権」を持った人たちの「人質」にとられながら、いいように利用される存在なのだ。

おれに見えてきたのは、そういう景色だった。

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2018/07/07

ボロボロ崩れる規範、ピラミッド。虚と実のあいだ(日常)をゆく料理本。

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「失われた20年」が「失われた30年」になろうとしているが、もう「失われた」ことに馴れきった日常も見受けられる。もちろん馴れきってない人たちも少なくない。一方では早く馴れる必要もあるし、一方では馴れずに変革の必要もある。どっちかということじゃないのだな。これからは、そういう揉み合いのなかで、未来が見えてくる。『理解フノー』にも書いたが、たいがいのことは、急いで白黒つけないほうがよい。

 

政権は、さらなる激しい変化に向かおうとしているようでもあるし、世の中、どうなっていくかわからないおもしろさがある。

 

少し前、3人ほどで飲んだとき、「いつからこんなぐあいになったのか」と話をふられたおれは、「中曽根からで、中曽根、小泉、安倍で、ホップ・ステップ・ジャンプだね」とこたえた。そして、ついこのあいだ、同じ3人と飲んだのだが、「中曽根は助走で、小泉がホップ、安倍はステップで、このあと誰がやるかは知らないがジャンプがあるんじゃないかな」という修正を行った。

 

ただ、「こんなぐあい」については、否定でも肯定でもなく、「こんなぐあい」だとおもっている。安倍のおかげで、「民主主義が破壊された」とか「民主主義の危機」だという人たちもいるが、おれは、日本にそれほど民主主義が根付いていたとはおもっていなかったし、だから「破壊された」とか「危機」という意識はないし、そういう感じもない。

 

ずーと、民主主義なんか遠い国だったよ。

 

ようするに、かぶっていた民主主義の柄をしたベールがボロボロボロになって、繕いなおす気もなくカネもなく、ま、ベールなんかまとっていてもしょうがないわけで、だから、日本の民主主義は、これからなのだ。

 

ベールのような民主主義を大事にするより、実のある民主主義を望んだ方がよいだろう。と、まわりを見渡せば、うすら寒い荒野だけど、おれは70年以上、そういう景色を見てきたから、とくにどうってことないね。

 

なんだか、いきなり話がちがう方向へいってしまったようだが、まるで関係ないわけじゃない。

 

料理本やレシピ本といわれるものも、どんどん変わっているというようなことを書いたのは、このふたつのエントリーでだった。

 

2018/05/26 「焼け野原」に咲く雑草のような食?

 

2018/05/31 バラバラ。

 

そのことを象徴するような2冊が、いま手元にある。いわゆる「料理本」のたぐいだけど、単なる実用書でもない、なかなか教養深い書で、こういう傾向のものがなかったわけではないが、やっぱりなかったといえる。

 

『わが日常茶飯 立ち飲み屋「ヒグラシ文庫」店主の馳走帳』(星羊社)は、中原蒼二さんの著で、写真は有高唯之さん。去る6月20日の発行だ。

 

この本には、栞の付録が付いていて、瀬尾幸子さん、大竹聡さん、南陀楼綾繁さん、鈴木常吉さん、牧野伊三夫さんとおれが短文を寄せている。

 

ってことで、センデンもかね、ここにおれが寄せた文を、そっくり載せることにする。

 

 「正統レモンサワー」なるものが登場するけど、本書はよくある正統性や優越性を思想にした料理本とは違う。オレはこういうものをこう作ってきたヨ、という、中原蒼二さんの一種の「私小説的料理、本」なのだと断言したい。中原さんがどう食べて生きてきたかの表現である料理なのだ。そういう料理を作ってこなくては、文章の大家だろうが、料理の大先生だろうが、このような本は書けない。生活の中に血肉化した料理文化を感じる。
 読んでいるうちに何かしら作ってみたくなる。作るには「私流」が必要になることが少なくない。いちいち自分で考え判断するハメになる。塩のひとつまみをどうするか。自由だから面倒だ。中原さんは面倒な自由を生きてきたに違いない。「オレ流」の中原さんを認識し、「私流」の自分を認識し、そのあいだにある、理解フノーのさまざまを想像する。中原さんは、私の誕生日に、錦玉子という手のかかる正統な料理を作ってくれたことがある。中原さんは、錦玉子を作る人なのだ。ポテサラでは材料から水分を抜く人でもある。
 「はじめに」で私は驚いた。檀一雄の『檀流クッキング』と江原恵の『庖丁文化論』のことが書いてあるからだ。私は中原さんより6年早く生まれ、同じ頃それを読み、食と料理に特別の関心を持った。江原恵とは生活料理研究所や飲食店までやった。いま、ここでこのようなことを書いているのも、そこから始まっている。なんという因縁だ。

 

以上。…………

 

つまり、「本書はよくある正統性や優越性を思想にした料理本とは違う」と書いているのだが、そこが、これまでの流れとはちがうキモだとおもう。

 

優越性は「卓越性」でもよいのだが、この思想は料理本にかぎったことではなく、いまでも出版界の主流が後生大事にしているものだ。これがなくては、編集者や作家といわれたりする人種が、エラそうにしていられない。ま、公務員が肩書を大事にするのと同じようなものだ。公務員は法律的な権威をかさにきるが、出版界じゃメディアの権威をかさにきるちがいのていど。

 

それは新聞を頂点とする前近代的な「活字文化」から引きつがれてきたのだけど、80年代中頃から、その土台が構造的に崩れ、だけど、活字文化の権威はすぐに崩れるわけでなく、少しずつ崩れながらイーメジは保ち、日本の民主主義のように文化のベールをまとってきた。

 

そのもとに、一種の規範のようなものやピラミッド構造のようなものがあり、エラそうにしたかったら、その規範やピラミッドをめざすしかなかった。料理本の世界も同じでやってきたのだが、2000年前後から変化が目立ってきた。

 

この変化は、とてもおもしろいのだ。でも、いま書くのはメンドウだ。とりあえず、1980年頃まで、日本のシステムの一元的な価値観や序列構造などの中枢を担っていた新聞の推定読者数の推移は、1956年を1とすると、1987年が1.5でピーク、のちは続落で2016年には1にもどり、さらに続落が予想されている、ということだけあげておこう。雑誌はもちろん、かつてのような権威はない。どれも業界誌や同人誌のようなものになった。おもしろいことに、NHKテレビ紅白歌合戦の視聴率のピークも同じ頃で、のちは低下傾向にあり、70%をこえていたそれは40%を切るようになった。

 

「按田餃子」の按田優子さんによる『たすかる料理』(リトルモア、初版1月で2月には2刷り)は、かなりおもしろい。その画期性は、おれの『大衆食堂の研究』のはるか上をいくね。とくに若い人は、この本から自由な料理と自由な生き方を考えるのがよいとおもう。もちろん、中高年も、権威で汚れ切った脳ミソの清掃によいだろう。

 

中原さんも按田さんも、いわゆる「プロの料理人」とはちがう道筋を歩み店を開いた。つまり特定の業界を歩むことによって、いつのまにか身についてくる正統性や優越性の思想からは、かなり自由だった。そのことも関係しているかもしれない。

 

環境としては、80年代中頃からの構造的な変化が、ベールの一番弱い部分から吹き出し始めたともみることができる。

 

ま、ほんとうは、実態としては、かつての大きなピラミッド構造や強い規範は、とっくにガタがきているのだけど、まだ体面を保てるていどの力は持っている。これからがおもしろい。料理本も民主主義も。

 

けっきょく、料理も民主主義も日常のことだ。

 

まったく関係ない、備忘。友達がおもしろいことを書いていた。

 

「私の心はフラクタル幾何学から生まれ変わり, 生化学分子への友情」

 

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2018/07/06

鰯(いわし)の立場。

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一か月前の6月6日に発売の『dancyu』7月号は「本気の昼めし」という特集で、おれは都内の動坂食堂を取材して書いた。

『dancyu』は、いわゆる「グルメ」な雑誌であり、ということは、とにかくモノの味覚が中心であり、それによった話が中心になっている。だけどおれのばあい、あまりモノの味覚を中心にした話は書いてこなかった。それは、テーマにもよるが、「食堂」が対象になることが多かったためでもあるのだな。

この号の動坂食堂ではちがった。「イワシの天ぷら」を全面に押し出し、おれにしてはモノと味覚によったことを書いている。

それは、鰯の立場が、その字のように、あまりにも弱いからであり、冷遇されていることが多いとおもっていたからだ。

書き出しから、「イワシの天ぷらが好きだ」とやった。ほんとうに好きなのだ。好きなんだが、大衆食堂でも、食べられるところは少ない。大衆酒場や居酒屋というところへ行くと、まだある感じだが、でもこれほど安い大衆魚なんだから、もっとあってよいはずだとおもうほど、メニューにあるところは少ない。

イワシの刺身は、天ぷらに比べるとあるようだ。おれがたまにいく回転寿しには、イワシは必ずある。おれは、真っ先にイワシとアジをにぎってもらう。

動坂食堂の「イワシの天ぷら定食」について、書き出しからもっと引用しちゃおう。

 イワシの天ぷらが好きだ。特に定食となると、淡白な米の飯とは対照的な味わいの、イワシ天の個性がものをいう。だけど、その個性は実に微妙で、鮮度に左右されやすい。つくるのも食べるのも、イワシの脂の劣化との競争なのだ。
 動坂食堂のイワシ天は素晴らしい。腹の辺に大葉がからみ、骨はとってあるのだが、活きのよい仕事ぶりをしめすかのように、スックと立ちそうなほど、まっすぐカラッと揚がっている。油の鮮度もよく、いつ食べてもうまい。
 とにかく熱々のうちに食べる。冷めて味が落ちないうちに食べたい。心がはやり、テーブルにおかれると同時に、最初の一尾を、つゆを使わずに大葉が付いている側から頬張る。サクサクサク、大葉の爽快感とイワシの旨味が口中に広がる。はあ~これだよなあ~、と一息ついて、残りの2尾はつゆをちょっとつけ、ごはんと交互に口に運ぶ。味噌汁も丁度よいあんばいだ。

というぐあいだ。これで全原稿量の半分ぐらいを使っているのだから、おれとしては異例だ。

本当は、「腹の辺に大葉がからみ」という揚げ方に、とくに特徴があるのだが、字数の関係でふれられなかったから、ここに書いておこう。。

イワシの天ぷらに大葉は付き物といってよいぐらいだが、たいがい、イワシの身に巻くか、衣に巻いて揚げる。ところが、動坂食堂のものは、たぶん、イワシと大葉を別々に揚げ鍋に入れ、鍋の中でからめるのだろう、イワシと大葉は衣で接続しているだけなのだ。だから、大葉の側から食べると、大葉が香りがサクサクッと口中に広がる。イワシもサクサクだ。

イワシの立場は弱い。肥しや養殖魚のエサだったのであり、だいたい「雑魚」「下魚」といわれる青魚の中でも、サンマのように話題になることもなく、最も弱い立場にあった。

そこには、安物をバカにしたり、安物を食べたり身につけたりする人をバカにする、根強い文化もからんでいる。「高級」がエラそうにしているのだ。

そして、これが旨さのもとでもあり、大きな弱点でもある、皮下脂肪の劣化が早いのだ。そして、その脂は、なんという物質だかすぐ思い出せないが、もともと若干の臭みと雑味というかエグみを含んでいて、それが「下品」と嫌われたりしていた。そして、脂の劣化で、その臭みやエグみが、どんどん増すのだ。

それから、とうぜん、イワシを揚げると、その脂が天ぷら油に溶けだして、油まで臭くなる。

ま、そういうこともあって、扱いにくいクセのあるやつなのだなあ。

だけど、そこが可愛いのよ。

おれは、若干の臭みやエグみは、けっこう好きだ。下品といわれようが、悪趣味といわれようが、けっこう。そういう偏見こそモンダイだとおもっている。

イワシの個性は、それなりの旨さだ。

が、しかし、自分で料理に使うときは、やはりけっこう気にする。イワシの生姜煮や梅煮にしても、骨を残すわけで、生ゴミにすると、そこから昨今の密閉性の高い家中に、臭いが広がる。やせ我慢で、うーん、イワシは臭いまで旨いねえ、と言っていても限界がある。だから、イワシを食べるのは、ゴミ出しの前の晩にしている。

イワシを叩いて、ダンゴにして味噌汁(ツミレ汁ね)にすれば、あとかたもなく腹におさまるのだが、そのばあいでも、内臓ははずすわけで、これがまたキョーレツな臭いのもとになる。

まだ、この臭いに馴れきるほど、おれはイワシを愛していないのだろうかと、おれは悩む。

谷崎潤一郎というやつは、とんでもないやつだ。イワシの天敵だ。やつは、イワシだけを「下魚」といって下等なものにしたわけじゃなく、東京の人間が食べるものを「見るからに侘しい、ヒネクレた、哀れな食ひ物」としたのであり、そこにイワシやサンマも含まれる。

かれは東京生まれ育ちで、関東大震災のあと、関西へ移住し、芦屋あたりに住んだ。

ま、別に東京の食べ物を擁護したいとは思わないが、食べ物について偏見を持った人間というのは、みっともないとおもう。それが仮に「美学」だとしたら、クソクラエだ。

今日は、これぐらいにしておこう。

そうそう、滝田ゆうの『寺島町奇譚』には、一家がツミレ汁を作って食べる場面があるけど、とても旨そうでシアワセそうで平和な、いい景色で、好きだねえ。その暮らしが戦争で焼け野原になる。庶民の暮らしや食べ物を見下す文化と差別や戦争は無関係ではない。

そうそう、それで、『dancyu』の動坂食堂のページだが、おれが原稿を書く段階でのレイアウトでは、イワシの天ぷら定食の写真が右上で、右下は客がたくさんいる店内の写真だった。

出来上がったのを見たら、店内の写真は特集の大扉に使われ、その写真があったところにはミックスフライの写真がおさまっているのだった。こういうのは、ショーガネエことだし、ドーセ文章より写真が大事だからねとおもってはいても、原稿書くときは、写真とのバランスを考えながら書いて、それでコンプリートされるイメージで書いているから、ギャーなんだこれ、ページのクオリティが落ちているじゃないか、と、少しはおもって、スグ忘れた。

そうやって、フリーの仕事も人生も流れて行くのです。それが、たのしいのです。

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