ここ3カ月ほどのあいだに、ネットで読んだ食に関する論文関係で、いちばん面白かったのが、これだ。
三田社会学第20号(2015)に掲載の村井重樹「食の実践と卓越化 ――ブルデュー社会学の視座とその展開――」
「本稿の目的は、食の実践と卓越化との関係を、正統化の様式に着目しながら考察することである。言い換えればそれは、人びとによって日常的に遂行される食の実践が、われわれの社会のなかで、いかにして卓越化へと寄与し、またそれがいかなる正統化の様式に基づいてなされるのか、を探求しようと試みるものである」「この目的からして本稿は「食の社会学」と呼ばれる領域に属するものである」
と、著者は、「はじめに」で学術的に述べる。学術的論文って、ほんと、メンドウクセエ書き方をする。
「食の実践と卓越化との関係を」「ブルデュー社会学の視座を基点に考察する」。
「ブルデューによる食の実践の把握を、卓越化と正統化の様式に基づき概観する。次に、フランス料理がそうした食の実践の背景を構成していることを確認した後、文化的オムニボア論の問題提起に目を向け、それが食の分野にも及んでいることを指摘する。そして、ジョンストンとバウマンの研究(Johuston and Baumann 2007;2010)に依拠しながら、現代社会では、ブルデューとは別様の卓越化と正統化の様式が、その重要性を増しつつあると提起する。最後に、以上を踏まえ、ブルデュー社会学の視座から、食の実践をめぐる今後の探究課題について検討する」
てなぐあいで、知らない先生方の名前が出てくるが、ようするに、この「食の実践」には食の生産や流通のことは含まれていない、おれたちの台所と食事が舞台なのだ。
で、ブルデュー先生は、食の実践と卓越化を、どう把握していたかというと、「必要性への距離」だというのだ。
ここに「自由趣味」と「必要趣味」という概念が登場する。
「必要性への客観的な距離が大きくなるにつれ」「自由趣味」は拡大し、「必要性を克服し支配する力の肯定であるこの意味での生活様式は」「日常的利害や差し迫った必要に支配されている人々、そんな人々にたいして正当な優越性をもちたいというもくろみをつねに含んでいる」
で、まあ、飲食の世界でよく見受けられることだけど、こうした自由趣味は、「必要性から生じたがゆえに美学の次元へ向かおうとする、したがって通俗的なものとして形成された必要趣味との比較において、はじめて自由趣味として現われることができるものなのだ」
そうなんどよなあ、生活から離れるほど、芸術的だとか文化的だとかいう感じ、ありますね。必要性に迫られ支配されている人たちに対して優越性をもちたいというもくろみ、なにやら奥ゆかしげな「美学」がありそうな文学的芸術的装いの飲食の話に、けっこう見られますよね。あの、気取った。
ここに「ハビトゥス」なる概念が登場する。ブルデューによれば、経済的必要性から解放された「無償」や「無私」へと向かう美的性向は、「世界のブルジョワ的経験の原理」である。こうした性向、すなわちハビトゥスを身につけた人びとは、差し迫った必要性に囚われないことで、ゆとりや洗練性を生み出し、他者に対して自らの卓越性を表現しようとする」
いるいる、いますねえ。
だけど、ハビトゥスは、そういう、ゆとりある人たちの美的性向をさすだけではない。
「ハビトゥスは、ある特定の集合に結びついた生活条件の所産であり、それゆえに、生活条件の差異に応じて、人びとの身につけるハビトゥスは相異なったものとなる。ブルデューにしたがえば、趣味とはハビトゥスであり、そうした生活条件の差異が、「自由趣味」と「必要趣味」の対立を導き出すのである」
「ハビトゥスと化した趣味は、他人の趣味に対する耐えがたさや拒否反応を呼び起こすものなのだ。そしてそれゆえに、類似した生活条件のもとでハビトゥスを身につけた人びとは、互いに結びつき合う一方で、異なるハビトゥスを身につけた人びとから自分たちを区別しようとする。ブルデューにしたがえば、正統性はこうした卓越化のゲームのなかで生じるのであり、その獲得は「ある任意の生きかたを正統的な生存様式へとしたてあげて、他のあらゆる生きかたを恣意的なものとしてしりぞけようとする」ことによって達成される」
あるある、ありますね。これって、わりと「意識高い系」とか「文化系」とかにも見られるね。もう、メディアには、私は正しい、という面白くでもないメッセージがあふれている。
で、ブルデューは、こうした視座から食の実践を分析しているのだが、「ハビトゥスが鮮明に表れる食の領域が、ブルデューにおいては、文化的実践の一類型として、しかるべき位置を与えられているように見える」と著者は述べる。
ブルデューは先の対立軸を、食の実践にあてはめる。
「量と質、豊富なごちそうと軽い料理、実質と形式あるいはマナーといった対照は、必要性にたいする距離の違いから生じる次の対立と重なりあっている。つまり最も栄養があると同時に最も経済的であるような食物へと向かう必要趣味と、庶民の気取らない食べかたとは反対に、形式やマナーが機能の否定としてはたらくことを求める様式化」つまり「自由趣味」との対立である。と。
「すなわち、必要性への距離が大きくなればなるほど高い正統性が付与され、小さくなればなるほど正統性は低くなっていくのである」
「ブルデューは、自由趣味と必要趣味の対立軸を見いだしつつ、そこに卓越化の論理が介在していることを示すことによって、それぞれの社会階級に対応する食の実践を鮮明に出したのである」
こうして著者の村井さんは、「3、ガストロノミーとしてのフランス料理」で、フランス料理にブルデューが指摘した卓越化と正統化の様式を確認する。
この論文が、今日的な意味で面白くなるのは、このあと「4、食の実践と文化的オムニボア」からだ。
文化的オムニボア論は、「「スノッブからオムニボアへ(From Snob to Omnivore)」と言われるように、ハイカルチャ/ローカルチャーと支配階級/被支配階級との一義的な対応関係が現代ではすでに明確なものではなくなり、とりわけハイカルチャーを消費することが卓越化と直接的に結びつくものではなくなったと主張される」
「今日の主要な社会的区別=卓越化(social distinction)は、ハイブラウか、ローブラウかというよりもむしろ、社会的多様性の問題なのである」
ってことで、食の実践と卓越化について、とくにオムニボア論が、なかなか面白いのだが、原文を読んでちょうだい。検索で、PDFをダウンロードできる。ほんと、インターネットは、いいねえ。
おれは、日本のばあい、「ハイブラウか、ローブラウかというよりもむしろ、社会的多様性の問題なのである」の「むしろ」は、ちょっと天秤のかけかたが違うような気がしている。
日本の主流は、多様性に対して寛容でもなければ理解もあまりない。これは、個人主義や人権の土壌とも関係するだろう。ハイブラウとローブラウをめぐっては、ハイブラウ側からの抑圧も強く、ハイカルチャーの消費が卓越化と結びついているかのような権威ものさばっている。それと、社会的多様化が、拮抗している感じだ。
が、しかし、飲食の分野は多様化は、けっこう面白いぐあいに進んでいる。「民主化」は、飲食からか。
ま、どのみちおれは、大衆的生活様式の「気取るな、力強くめしを食え!」だけどね。