ボロボロ崩れる規範、ピラミッド。虚と実のあいだ(日常)をゆく料理本。
「失われた20年」が「失われた30年」になろうとしているが、もう「失われた」ことに馴れきった日常も見受けられる。もちろん馴れきってない人たちも少なくない。一方では早く馴れる必要もあるし、一方では馴れずに変革の必要もある。どっちかということじゃないのだな。これからは、そういう揉み合いのなかで、未来が見えてくる。『理解フノー』にも書いたが、たいがいのことは、急いで白黒つけないほうがよい。
政権は、さらなる激しい変化に向かおうとしているようでもあるし、世の中、どうなっていくかわからないおもしろさがある。
少し前、3人ほどで飲んだとき、「いつからこんなぐあいになったのか」と話をふられたおれは、「中曽根からで、中曽根、小泉、安倍で、ホップ・ステップ・ジャンプだね」とこたえた。そして、ついこのあいだ、同じ3人と飲んだのだが、「中曽根は助走で、小泉がホップ、安倍はステップで、このあと誰がやるかは知らないがジャンプがあるんじゃないかな」という修正を行った。
ただ、「こんなぐあい」については、否定でも肯定でもなく、「こんなぐあい」だとおもっている。安倍のおかげで、「民主主義が破壊された」とか「民主主義の危機」だという人たちもいるが、おれは、日本にそれほど民主主義が根付いていたとはおもっていなかったし、だから「破壊された」とか「危機」という意識はないし、そういう感じもない。
ずーと、民主主義なんか遠い国だったよ。
ようするに、かぶっていた民主主義の柄をしたベールがボロボロボロになって、繕いなおす気もなくカネもなく、ま、ベールなんかまとっていてもしょうがないわけで、だから、日本の民主主義は、これからなのだ。
ベールのような民主主義を大事にするより、実のある民主主義を望んだ方がよいだろう。と、まわりを見渡せば、うすら寒い荒野だけど、おれは70年以上、そういう景色を見てきたから、とくにどうってことないね。
なんだか、いきなり話がちがう方向へいってしまったようだが、まるで関係ないわけじゃない。
料理本やレシピ本といわれるものも、どんどん変わっているというようなことを書いたのは、このふたつのエントリーでだった。
2018/05/26 「焼け野原」に咲く雑草のような食?
2018/05/31 バラバラ。
そのことを象徴するような2冊が、いま手元にある。いわゆる「料理本」のたぐいだけど、単なる実用書でもない、なかなか教養深い書で、こういう傾向のものがなかったわけではないが、やっぱりなかったといえる。
『わが日常茶飯 立ち飲み屋「ヒグラシ文庫」店主の馳走帳』(星羊社)は、中原蒼二さんの著で、写真は有高唯之さん。去る6月20日の発行だ。
この本には、栞の付録が付いていて、瀬尾幸子さん、大竹聡さん、南陀楼綾繁さん、鈴木常吉さん、牧野伊三夫さんとおれが短文を寄せている。
ってことで、センデンもかね、ここにおれが寄せた文を、そっくり載せることにする。
「正統レモンサワー」なるものが登場するけど、本書はよくある正統性や優越性を思想にした料理本とは違う。オレはこういうものをこう作ってきたヨ、という、中原蒼二さんの一種の「私小説的料理、本」なのだと断言したい。中原さんがどう食べて生きてきたかの表現である料理なのだ。そういう料理を作ってこなくては、文章の大家だろうが、料理の大先生だろうが、このような本は書けない。生活の中に血肉化した料理文化を感じる。
読んでいるうちに何かしら作ってみたくなる。作るには「私流」が必要になることが少なくない。いちいち自分で考え判断するハメになる。塩のひとつまみをどうするか。自由だから面倒だ。中原さんは面倒な自由を生きてきたに違いない。「オレ流」の中原さんを認識し、「私流」の自分を認識し、そのあいだにある、理解フノーのさまざまを想像する。中原さんは、私の誕生日に、錦玉子という手のかかる正統な料理を作ってくれたことがある。中原さんは、錦玉子を作る人なのだ。ポテサラでは材料から水分を抜く人でもある。
「はじめに」で私は驚いた。檀一雄の『檀流クッキング』と江原恵の『庖丁文化論』のことが書いてあるからだ。私は中原さんより6年早く生まれ、同じ頃それを読み、食と料理に特別の関心を持った。江原恵とは生活料理研究所や飲食店までやった。いま、ここでこのようなことを書いているのも、そこから始まっている。なんという因縁だ。
以上。…………
つまり、「本書はよくある正統性や優越性を思想にした料理本とは違う」と書いているのだが、そこが、これまでの流れとはちがうキモだとおもう。
優越性は「卓越性」でもよいのだが、この思想は料理本にかぎったことではなく、いまでも出版界の主流が後生大事にしているものだ。これがなくては、編集者や作家といわれたりする人種が、エラそうにしていられない。ま、公務員が肩書を大事にするのと同じようなものだ。公務員は法律的な権威をかさにきるが、出版界じゃメディアの権威をかさにきるちがいのていど。
それは新聞を頂点とする前近代的な「活字文化」から引きつがれてきたのだけど、80年代中頃から、その土台が構造的に崩れ、だけど、活字文化の権威はすぐに崩れるわけでなく、少しずつ崩れながらイーメジは保ち、日本の民主主義のように文化のベールをまとってきた。
そのもとに、一種の規範のようなものやピラミッド構造のようなものがあり、エラそうにしたかったら、その規範やピラミッドをめざすしかなかった。料理本の世界も同じでやってきたのだが、2000年前後から変化が目立ってきた。
この変化は、とてもおもしろいのだ。でも、いま書くのはメンドウだ。とりあえず、1980年頃まで、日本のシステムの一元的な価値観や序列構造などの中枢を担っていた新聞の推定読者数の推移は、1956年を1とすると、1987年が1.5でピーク、のちは続落で2016年には1にもどり、さらに続落が予想されている、ということだけあげておこう。雑誌はもちろん、かつてのような権威はない。どれも業界誌や同人誌のようなものになった。おもしろいことに、NHKテレビ紅白歌合戦の視聴率のピークも同じ頃で、のちは低下傾向にあり、70%をこえていたそれは40%を切るようになった。
「按田餃子」の按田優子さんによる『たすかる料理』(リトルモア、初版1月で2月には2刷り)は、かなりおもしろい。その画期性は、おれの『大衆食堂の研究』のはるか上をいくね。とくに若い人は、この本から自由な料理と自由な生き方を考えるのがよいとおもう。もちろん、中高年も、権威で汚れ切った脳ミソの清掃によいだろう。
中原さんも按田さんも、いわゆる「プロの料理人」とはちがう道筋を歩み店を開いた。つまり特定の業界を歩むことによって、いつのまにか身についてくる正統性や優越性の思想からは、かなり自由だった。そのことも関係しているかもしれない。
環境としては、80年代中頃からの構造的な変化が、ベールの一番弱い部分から吹き出し始めたともみることができる。
ま、ほんとうは、実態としては、かつての大きなピラミッド構造や強い規範は、とっくにガタがきているのだけど、まだ体面を保てるていどの力は持っている。これからがおもしろい。料理本も民主主義も。
けっきょく、料理も民主主義も日常のことだ。
まったく関係ない、備忘。友達がおもしろいことを書いていた。
「私の心はフラクタル幾何学から生まれ変わり, 生化学分子への友情」
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