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2018/08/31

スペクテイター42号「新しい食堂」。

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スペクテイター42号「新しい食堂」が発行になった。早いところでは、今日から書店に並んでいる模様。

自分の本ができたときでも、たいしてコーフンしなかったおれが、この本を手にして、すごくコーフンした。身体がふるえた、といいたいところだが、気分だけ、身体がふるえた。

こういう食堂の本が欲しかったし、こういう本が欲しかった。

おれは、「結局、食堂って何?」という論考のようなものを寄稿している。

それと、当ブログの2006年6月28日のエントリー「ありがとね」が、物干竿之介さんの構成と画によって、「食堂幸福論2 ありがとね」になっている。こんな、一昔以上前に書いて忘れていたエントリーを見つけたのは、編集の赤田祐一さんで、ほんと、このことだけじゃない、赤田さんの仕事っぷりはすごいものがある。

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その赤田祐一さんと打ち合わせで会ったのは、5月24日だった。スペクテイター40号の「カレーカルチャー」の打ち合わせで会って以来だった。一年ぶりぐらいだろう。またもや大宮まで来てもらった。

3、4時間ぐらい話したかな。ああでもない、こうでもない、ああだろう、こうだろう。まだ企画は固まりきっていなくて、最初は「日常」「日常食」という言葉がとびかっていた。それから、近ごろの食をめぐる、さまざまな動向に見られる「変化」のことなど。

「日常食の冒険」という感じから「食堂幸福論」みたいなものになり、メールのやりとりもあって、おれは「食堂考現学」のようなものを書くことになった。

そのときすでに登場する食堂は決まっていた。できあがったものを読んでみて、じつに食をめぐるイマを象徴するような食堂ばかりだと、再認識した。

しかし、おれが原稿を書いているときは、食堂の取材がどんな内容になるか、まったく見当がつかない。おれの原稿内容が、あまりにズレているとマズいなあと、最初は心配し、すぐに忘れ、とにかく28枚書いた。

ほんとうは、70年代ぐらいまでを書き込みすぎて、80年代からの動向は概括的になってしまった。結果的に、その方がよかったようだ。登場する食堂の方の話のほうが、80年代以後のイマを生きる話として、素晴らしいからだ。

いわゆるグルメな食堂めぐりとは違う。徹底取材というのは、こういうことだろう、時間をかけ、いろいろな角度から突っ込んだ取材が行われている。

「食堂は人なり」の大扉。「ウナカメ」の丸山伊太朗さん、「按田餃子」の鈴木陽介さんと按田優子さん、「マリデリ」の前田まり子さん、「なぎ食堂」の小田晶房さん、なんて魅力的な人たちなんだろう。

「ヴィーガンカフェバー Loca★Kichen」のいとうやすよさんは、「食堂開業心得帖」を自分で書いている。イラスト入りで、DYI熱が伝わる。なかなかおもしろい。

編集部の青野利光さんは、巻頭言にあたる文章に、こう書いている。

「皆さんの話を聞いて感じたのは、食事をする側とそれを提供する側の食に対する意識が、今まさに変容のときを迎えているのではないかということでした」

「あるときは美味しい料理に舌づつみを打ち、あるときは店主の言葉に耳を傾けながら、本誌が見出した新しい社会のカタチとは?
たくさんの言葉のなかに、みなさんの未来を見つけていただけたら幸いです。」

食に対する意識の変容のイマ。そこが、この本の焦点だ。

編集部の赤田祐一さんによる特集リード文のタイトルは、「"割り切れなさ"の魅力」だ。

「その「割り切れなさ」こそ、愛される店の本質であり、じつは食堂の存在理由ではないのだろうか」

「"新しい食堂"とは「新しい意識で運営されている個性豊かな飲食店」のことで、ここではそれぞれの店に親しみを込めて"食堂"と呼ばせていただきます」

「ここにとりあげたような意識の食堂が少しずつ増えていき、それがスタンダードになれば、世の中も少しずつ、不寛容なものから寛容なものへと変わっていくのではないでしょうか」

この「新しい」は、トレンドとは関係ない。「古い」を否定しているわけではない。

もちろん、食材や料理や味覚などに関する、それぞれの店主の考え方も、たっぷり聞いている。どなたも料理は「独学」だから、いわゆる「料理人」や「料理職人」たちの話とは違う。こういう話が聞きたかった。

とにかく、これからの料理、これからの食事、これからの生活、これからの生き方、これからのショーバイ、これからの仕事、これからの社会など、消費ではなく、創造を追求したい人たちには必読ですね。

ビジュアルも含め、本のつくりとしても、気取らず親しみやすく、新しい食堂の感じで、いい。

アートディレクション=峯崎ノリテルさん、デザイン=正能幸介さん。撮影=安彦幸枝さん。

そうそう、おれの文章「結局、食堂って何?」の扉には、久しぶりに東陽片岡さんのイラストがドカーンなんだけど、そのイラストの男が、頭髪がたっぷりあった頃のおれのようなのだ。

この本のことについては、明日も明後日もその次の日も、書くかもしれない。

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2018/08/25

2日連続、居酒屋ちどり@北浦和。

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一昨日、昨日と二日続けて、北浦和の居酒屋ちどりのライブへ行った。2日連続なんて、めったにあることではない。一昨日の23日は、円盤企画「URCレコード全部聴く会」5回目、これは2回目から連続して出席している、待ってましたのライブだし、昨日のAZUMIは、年に3回ぐらいしかないうちの1回だ、前回も行っているし、はずすわけにはいかない。

まずは、昨日のAZUMIソロライブだが、毎度のように堪能した。とくに、前回、いつものAZUMI説教節が、「やると思っているでしょうがやりません」とはぐらかされたので、ひさしぶりだった。いつも冒頭でチャック・ベリーが出てきてから次々に死んだ人が登場しては展開する説教節、今回はチャックベリーはちょこっと出たあと、AZUMIさんのおかんが出てきて、AZUMIさんとおかんの掛け合い。AZUMIさんが小学校3年生のときにウクレレを買ってもらったところから「ギター狂い」になっていく、いつものようにギターをかきならしテンポよく進み、最後、おかんだってロマンチックだったんだよというおかんの亡霊に、静かにトワイライトタイムを弾いて終わる。心憎い展開だった。次回、やってくるのは11月だそうだ。たのしみに待っているぜ。

昨夜は、しばらく行く機会がなかった狸穴にチョットだけ顔を出して、ビール一本あけて、あれこれ消息を交換しあい帰って来た。

さて、円盤企画「URCレコード全部聴く会」5回目だが、けっこう衝撃的だった。2回目から参加しているわけだが、今回は最もコーフンした。

自分の体験としても、1968年69年と70年では、なにかずいぶん変わったなという肌触りが残っている。なんてのかな、くすんだモノトーンから色彩をおびたような感触というか。その変りようが、レコードにもフォークにも、はっきりあらわれていたのだ。フォークからロックへ。これは続けて聴いているからこそ、はっきりわかったのではないかと思う。

それに、おれは音楽にはかなり疎いので、フォークだのロックだのといわれても区別がつかないし、ジャンルなんかどーでもいいじゃないかのタチなのだが、今回は、はっきりわかったのだった。これも続けて聴いているおかげだろう。だいたい、あの「フォークの神様」といわれた岡林信康が「ロック化」したのだ。

とにかく、吉田拓郎のレコードデビューとはっぴいえんどの出現は、時代を画したといえそうだ。

円盤の田口史人さんが作ってくれる年表の1970年4月の欄には、「「ロック叛乱祭」で岡林ロック化」とある。同じ年表によれば、70年3月に「ヴァレンタイブルーが「はっぴいえんど」に改称」とある。やはり同じ年表には、吉田拓郎のレコードデビュー「古い船を今動かせるのは古い水夫じゃないだろう」(L盤、エレック)があり、これはURCではないのだが、URCが押していたフォークを痛烈に批判している歌であり、田口さんが聴かせてくれた。これには、ほんと、おどろいた。

当時のおれは、音楽などにはあまり関心がなく、吉田拓郎を知ったのは、70年代になってから、「結婚しようよ」(1972年)あたりからだった。だから、吉田拓郎とはっぴいえんどあたりで、流れがガラッと変わっていることは、初めて知ったのだ。

URCレコードの配布は、1969年2月にスタートしている。今回は、70年3月の発行の盤から聴いた。わずか一年のあいだに、岡林はロック化するし、URC4月配布の遠藤賢司「niyago」(L)のレコーディングにはははっぴいえんどが参加しているし、6月発行の岡林信康「見るまえに跳べ」も、はっぴいえんどがレコーディングに参加しているのだ。

69年の「くそくらえ節」の岡林とえらい違いだし、その頃のURC発行のフォークともえらい違いなのだ。

この69年70年は、ずいぶんいろいろあった。このころのことは、全共闘や70年11月の三島事件がクローズアップされるが、そればかりじゃないのだなあ。そんなことは関係ない人たちのほうが、はるかに多いわけだからな。

そのあたりのことを、細かく見直す必要がありそうだと思った。

昨年末発行の『ユリイカ』のエンケン特集に論考を寄稿したときは、「カレーライス」が生まれる時代背景を探ってみたいと思いながら、時間的制約もあり不十分だった。そのときの要点は、こんなことだった。

産業の成長で、ギターの量産化が本格化するのが1966年。

やはり産業の成長で、カレーライスの牽引役はカレー粉から即席カレールーに移行する。その年間生産量は、65年の36,500トンから70年には70,605トンになる。

生活の洋風化として、ダイニングキッチンが普及し、70年には、家庭の食卓は「ちゃぶだい」とイスとテーブルの割合が逆転していると推察される。

などなど。

遠藤賢司はおれより4歳若く、上京も4年ずれている、この間に東京オリンピックもあった。「六〇年安保の残り香があった私が上京したてと、六〇年代後半とでは、大衆や大衆めしに対する目線が変わってきていたといえる」とも書いている。

『大衆食堂の研究』(『大衆食堂パラダイス』にも載っている)から、「学生、労働者、職人、アソビニン……地下足袋をはいた、赤旗を持った、ギターを抱えた田舎者が、食堂では野性のままふるまった。気取り、虚飾、いっさい無用。クセークセーいろいろな地方の様々な種類の人間が、体をぶっつけあって、怒鳴り声をあげ、あけすけにめしをくう」を引用しているが、これは、だいたい68年頃から70年頃の風景だ。

とにかく、細かくは、これから考えるとして、チョイと当時のフォークシンガーの年齢とレコードデビューが気になったので、抜き出してみる。

生まれた順番だと。

吉田拓郎 1946年4月 1970年4月「古い船を今動かせるのは古い水夫じゃないだろう」

岡林信康 1946年7月 1968年9月「山谷ブルース」

遠藤賢司 1947年1月 1969年2月「ほんとだよ/猫が眠ってる」

高田 渡  1949年1月 1969年2月 URCレコードから五つの赤い風船とのカップリングアルバムでデビュー

おれは、1943年生まれ、終戦は1945年。

1968年、国民意識調査では「中流」に含まれる数が8割を越え、所得倍増計画のもとで日本の国民総生産 (GNP) が世界第2位となった。1970年、「中流意識」は約9割になった。

1947年から1949年にかけての生まれは、俗に「団塊世代」といわれ、70年代早々からは「ニューファミリー」ともいわれ、日本のあらゆる市場をリードするようになった。

吉田拓郎は、最初の結婚の頃、妻とテレビに出るなど、「ニューファミリー」「ヤングファミリー」の人気モデルのような存在になっていた記憶がある。

吉田拓郎とはっぴいえんどの出現は、少なくとも、この層を中心とする新しいマーケットの出現と、なにか通低するものがありそうだし、もっとなにかありそうだ。それと食文化との関係が気になっている。

ま、こういうことはこれからゆっくり考えるとして、URCレコードの1970年3月分には、嘉手苅林昌「海のチンボーラ(日本禁歌集3)」(L)、一柳慧「オペラ横尾忠則を唄う」(L、ジエンド)があって、これは特筆すべきなのだが、もう書くのがメンドウなのでやめる。

円盤の田口さんは、ほんとうにタフでエネルギッシュだ。このあいだ、円盤のレコブックで「ムードコーラス血風録」と「日本のタンゴ」を発行したばかりなのに、今回は「沖縄はレコの島」を完成し持ってきた。もちろん買った。

これは、嘉手苅林昌「海のチンボーラ(日本禁歌集3)」も関係する。このレコードタイトル、ニヤッとするでしょ。

沖縄のレコード史、おもしろい。その始まりは、戦前、大阪の大正区なのだ。しかも、「太平洋戦争突入の'41年に、曲の歌詞が卑猥だということで摘発を受け」たのだった。

とにかく、おもしろく、読みごたえ十分。

円盤企画「URCレコード全部聴く会」の次回、6回目@居酒屋ちどりは、来月の第4木曜日だ。たのしみだなあ。しかし、いつまで続くのだろう。永遠に続いてほしい。居酒屋ちどりも永遠に。

当ブログ関連
2018/08/08
円盤企画「URCレコード全部聴く会」。

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2018/08/23

晩節。

知り合いの葬式に出席したら、ひさしぶりの知人と会った。10数年ぶりぐらいだろう。おれより10歳ぐらいは若いはずで、70年代後半から80年代、よく一緒に仕事をしたり飲んだりした。飲んでることのほうが多かったな。

自然に2人の共通の知り合いの話になった。

その一人に日本の最高学府の頂点と見られている大学の総長になった人がいる。おれたちは彼が助教授の頃からの付き合いだった。仕事上の付き合いで始まったのだが、偶然、彼の高校時代の友人たちと飲み友達だったこともあり、けっこう親しく付き合うことになった。気軽に研究室へ遊びに行くこともあったし、彼もときどき、おれたちの事務所に遊びに来た。

その先生は、専門の先端的なテクノロジーの分野でも実力が評価されていたし、専門分野以外にも見識があり注目を浴びていた。エラぶることもなく権威や権力に迎合することなく、人柄も風貌も爽やかで、人望があった。やがて教授になり学部長になった。

おれたちは、そりゃ当然だろう、あの人が学部長になるぐらいなら、あの権力と権威のかたまりのような大学も少しはまっとうなところがあるな、とか話あっていた。ところが、それどころか、総長になったのだ。

おれは先生が学部長になった頃には、それまでの仕事から離れていたし、東京からも離れることが多かったし、人脈に執着するほうではないので、付き合いは無くなっていたが、ほかの人たちは、まだいろいろ仕事をしていたようだ。

先生の方は、総長を無事に勤めあげたのちも、学術関係のさまざまな要職について活躍していた。学術畑ひとすじという感じだった。

ところが、ある日、世間で論議注目の的になっている、政府の有識者会議の責任者になったのだ。これには、おどろいた。まったく専門分野とも学術とも関係ないテーマなのだ。なんであの先生が?という感じだった。

しかも、いろいろな権力や権威が絡み合ってウサンクサイ政治的欲望が渦巻いていそうな会議なのだ。あの先生には、もっとも縁がない世界という感じだった。しかし、それだからこそ、責任者にされたのかもしれないとも考えられた。それにしても、断ることはできなかったのか。

葬式で会った知人は、まだ年賀状のやりとりぐらいはあるようだったが、あれこれ話した最後に、「晩節を汚したなあ」と、いった。

2人で、無言のまま「残念」という感じで酒を口に運んだのだった。

ま、こちらの思い入れが過剰だったのかもしれないし、晩節を「汚す」までにはいたっていないだろうとは思うが。先生の経歴のなかで、それだけが「異色」なのはたしかだ。

おれの人生は汚しっぱなしだから、晩節だからといって気にすることは一つもない。なさすぎるか。

思い切り高い評価を受けたのち、アカンベーと裏切るようなことをしてみたいものだと思ったが、もう無理だ。

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2018/08/22

構造と空気……お客様アンケート。

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あの大騒ぎだった「モリカケ」だが、野党の攻めには戦略がないから詰め切れないだろうということを、ごく最初の頃ツイッターでつぶやいて、それ以来この件についてはふれてないと思う。あ、もしかすると、「「アッキード」なんていう言い方をしていて詰め切れるか」なんてこともつぶやいたような記憶があるな。もうツイッターからは遠ざかっているので、調べなおす気もしないのだが。

ま、野党を腐すつもりはなく、ここ20年ぐらいかな?10数年ぐらいかな?権力者の「疑惑」の追及は難しくなっているわけだ。それだけ支配が狡猾になっているともいえるし、そのことを考えれば、おれならそういう攻め方をしないナと思うことがあったので、つぶやいたまで。でも、おれは野党の指導者でもブレーンでもないからね。

まだ「モリカケ」は終わったわけじゃないが、このことに関連して、「忖度」という言葉が流行語のように浮上し、それでおれは「構造と空気」という言葉がひらめいた。

「構造と空気」は、浅田彰の「構造と力」からの連想だが、ここのところずーっと「構造と空気」が頭に停滞している。「大衆食堂の構造と空気」というぐあいに。

きのう、2018/08/15「「終戦記念日」に『瀬島龍三 参謀の昭和史』を読む。」に書いた、『瀬島龍三 参謀の昭和史』を読み終えた。いろいろ調べながら読んだので、けっこう時間がかかった。

そしてますます「構造と空気」という言葉が、おれの頭の中でふくらむのだった。いまの「構造と空気」は、中曽根―瀬島の「臨調」「行革審」から始まったのだ。そのときの線引きのセンにそって、小泉、安倍と強化された。いわゆる「疑惑」の追及が難しくなっているのは、これと関係する。

ということはおいといて。

今日、ある書類を探していたら、ある飲食チェーンの「店長直通 お客様アンケート」というのが書類のあいだから出てきた。

そうそう、飲食チェーン店の「お客様アンケート」を集めてみようと思ったことがあったな、でも、蒐集はおれの最も苦手とするところだから忘れていた、というぐあいなのだ。

飲食チェーンの店に行くと、お客様アンケートがテーブルの上のケースに入っていることが多い。社長室直通のアンケートもある。それぞれ、どういう意図でやっているか、アンケートからは読み取ることが難しいが、見ていると、こういうアンケートを集めて、上司たちの解析する能力の方は大丈夫なのかと思うような内容のものもある。もしかすると、俺様経営者は現場に目を光らせているゾという遠回しの脅しかも知れないと思うこともある。

お客様アンケートがつくりだす構造と空気、なーんてこともテーマになりそうだ。

それはともかく、この書類のあいだから出てきたアンケートの質問項目は、なかなかおそろしくて興味深い。これは、たしか、昨年の秋以後から今年の始めに、この店で食べて、テーブルにあったのを取って来たのだ。

1、料理の味はいかがでしたか?
2、従業員のサービスはいかがでしたか?
3、店内の清潔度はいかがでしたか?
4、お店の雰囲気はいかがでしたか?

ここまでは、ま、よくあるもので、「満足」「やや満足」「普通」「やや不満」「不満」の5段階評価の選択になっている。

このあとを見て、目が点、じゃなく、カッと開いた。

5、明るく輝いているスタッフがいたら教えてください。
  ①いなかった  ②いた →スタッフの名前(     )

6、そのスタッフは、どこが輝いていましたか?
  ①笑顔 ②話し方 ③キビキビ働いている ④身だしなみ ⑤明るい声 ⑥説明が丁寧 ⑦その他(      )

いやあ、おそろしい。労働者をなんだと思っているのだろう。といっても、いまでは、監視カメラ下の労働が普通になりつつあるけどね。バカな経営者は大助かりさ。

なにより、これを見た客は、こういう基準で従業員を評価するのがアタリマエになるだろうし、どんどん均一化はすすみ、「高いレベルの均一化ならいいじゃないか」なーんてことになりかねない。

もうすでに、優秀モデルを定めての「高いレベルの均一化ならいいじゃないか」という感じは、けっこう蔓延している。これ、「多様化」でも「個性化」でもない。こんなんで「後期(末期?)資本主義日本」を乗りきれるか。

80年ごろまでの、優秀モデルを設定して、みんな同じように競争するというやり方ではないか。いいモデルを追っているようだが、かつての「ジャパンアズナンバーワン」といわれた時代までのように、工業生産でイケイケの時代じゃないのになあ。もっともそうなってからも「プロジェクトX」なんてので、昔の成功を懐かしんでいたのであるが。

まだあのころの成長モデルから抜け出せず、こんな風に「構造と空気」はつくられ、一元的な価値観にもとづく優秀モデルを基準に、お互い欠点を見つけあい叩き合い捨てあって均一的に質の向上を図りながら切磋琢磨し疲弊しあい末期症状を拡散させながら共に沈んでいくのであろうか。ああ、神様仏様瀬島様。


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2018/08/20

テクノロジーとエネルギー。

きのうふれた『談 100号記念選集』をパラパラ見ていたら、石毛直道と樺山紘一の対談「ガストロノマドロジー事始め」ってのがあった。

ずいぶん大層なタイトルだが、談の編集長は、こういう学術風のタイトルの付け方が好きなのだな。もっとも『談』という雑誌が、学術ミーハーな雑誌なのだが。

「ガストロノマドロジー」って、なんだ、と思って読んでいくと、ようやっと半分もすぎたあたりであった。石毛さんが、こういっている。

「美食の歴史でガストロノマド、いわゆる美食遍歴というのがありますが、ヨーロッパのレストランの中でもイン(inn)やタバ-ン(tavern)など旅行に関わりのある食事の場所がたくさんあったわけですね」

ということで、どうやら「ガストロノマドロジー」ってのは「美食遍歴学」ってことで、もっと平たくいえば「世界美食ツアー学」てな感じ、といったらよいのかな。

樺山さんは「今は食材の方がツアーしてくるのですが」といっている。

この対談ツアーは、古代から現代、洋の東西にわたっているが、初出は1996年2月発行の『談』53号だから、読んでいると、この20年間の移り変わりを実感する。

とくに世界的に見ても、いわゆる「エスニック料理」の台頭が、その地域の経済発展と共に盛んになったわけだけども、この対談の段階では、まだフランス料理と中国料理が軸になっている。

でも、変わっていないこともあるわけで、日本料理に関する、こんな話しなんか。

石毛 (略)それから素材のおいしさをそのまま出すこと。もちろん日本料理も人工だけども、その人工性をなるべく表に出さないようにする。その意味で、日本料理は反文化的な料理のわけです。

樺山 前文化的というか。

石毛 でもそれはぜいたくな料理なんです。

(略)

石毛 結局、日本の料理というのは野蛮なんですよ。その野蛮さを洗練化した。(略)

なかなかおもしろいのだなあ。「野蛮さを洗練化した」

この場合の洗練化とは様式化とイコールだと見てよいだろう。野蛮さを捨てないで洗練化する。おれは野暮を捨てないで洗練させたいと思っているのだが。

樺山さんが、魯山人の美について「あれは苦行的、閉鎖的な美の体系でしょう。通でないとわからない食味だとか料理術だとか、閉じ込められた集団の中でもって食の美があるというのは、むしろ明治以降の東京には合いやすい考え方ですね」といっているのが、おもしろい。

これは、「東京」というより、東京の中央の文化といえるだろうなあ。エラそうで閉鎖的で抑圧的である、それは日本の中央文化の特徴で、そういう「美の体系」は、出版業界あたりでは「文学」と共に、なかなか威力を持っているんじゃないですかね。ま、だいぶ衰弱がすすんでいるようではあるけれど。

そりゃそうと、「食とセックス」ってことで、こんなことをいっている。

樺山 そうですね。(日本人は)実質はおとなしい食生活、おとなしい性生活をやっているんだと思いますね。聞けば日本人はラブホテルで若いカップルでもシャワーを浴びてからセックスをするという。ヨーロッパ人は違う。やはり臭いが残っていないと、食欲がわかないということですかね。(略)

石毛 その代わりというか、一方で日本人の性に対するテクノロジーというのは、向うの連中から言わせたらものすごいものがある。

樺山 こちらテクノロジー、あちらエネルギーという気がしますね。

石毛 それは的確な言い方だと思いますね。だいたい日本人全体がそうなんですよ。

樺山 身も蓋もないけれども、こちらはエネルギーがないからテクノロジーでやっている。食だってそうですよ。彼らは基本的にたくさん食べますよね。というか、たくさん食べることに出発点がある。

石毛 たくさん食べて、そしてセックスもと。常にパラレルになっている。

といった話をしながら、対談は終わりに近づいていく。

石毛 (略)食と同様、性につても、今までの延長線上ではなく、もしちゃんとやるつもりなら、やはりフィールドワークをしなければならない。(略)ある程度の体験をもっていないと、筆力がついていかない。

樺山 そうですね。しかしこれはよっぽど若くして始めないとだめですね。

石毛 耳年増の性の話なんていうのはね。

樺山 もういくつも聞いたけど聞き飽きました。

石毛 年齢の問題があって、もう私の歳ではちょっと無理ですね。

樺山 気がつくのが遅かった。

石毛 先に性からやればよかった(笑)。

これでオワリ。なんですか、これ。
ま、学術的な話だからといって気取ることはないけどね。
おやじの愚痴で終わる「ガストロノマドロジー事始め」でした。

石毛直道 1937年生まれ。
樺山紘一 1941年生まれ。
おれ    1943年生まれ。

若者よ、気取るな、発情したまま丼飯を食らえ。

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2018/08/19

東日本震災以後の理性的な「思考停止」。

おれがツイッターを始めたのは2011年の2月のことで、3月11日の東日本大震災のちょっと前だった。大震災のあと、いろいろな分断や亀裂が生まれたり表面化して、自分と異なる考えなどに一撃を加えるのに「思考停止」という言葉がよく使われるのをツイッターで目にした。

相手に「思考停止」と言ってしまえば自分の勝ち、てな感じで、お互いに相手を「思考停止」と言いあっている「思考停止」を眺めていると、では「思考停止」じゃない人はどこにいるのだろうと思ってしまうのだが、「思考停止」という言葉がこうも使われるようになったのは、ツイッターが普及したからなのか大震災が何かしらのキッカケになっているのか、よくわからない。

とにかく、自分は思考停止ではないと思っている人が大勢をしめているらしいのだ。

そもそも「思考停止」って、なんだ、どんなことを指しているのか、ということでインターネットで探ってみると、まあ、みなさん勝手にいろいろ言っている。ようするに、「思考停止」を説明しながら、自分は思考停止ではないということを主張したいだけとも読み取れる。

よく考えてみると、「思考停止=悪」という考えこそ、思考停止ではないのかなあと思ってしまうね。

なんだか思弁的な言葉を使い思弁的なことを言っていれば、思考停止してないかのようなポーズもある。

そして、思考というと、やたら「理性的」なふりなのだ。つまり、「思考=理性」みたいな思考停止も見られる。

考えるときは理性的に。そうなのか。いいのか、それで。

自分は思考停止ではない、だから正しい、みたいなの、けっこうコワイ。まんじゅうコワイじゃなく、ほんとうにコワイ。

「思考停止」というレッテルを貼りながら、反証可能性、反論可能性を否定する、そして自分は絶対神に近づく。おお、神様仏様。ま、単なる狭量なだけじゃねえかという感じだけどね。エラそうな、カッコつけたゲンロンが多いってこと。

大衆食堂のめしを食っていれば、「思考停止」になりません。というのは30%ぐらいは嘘だけど。

ってことで、本日は、『談』91号(2011年7月号)に掲載の「理性主義を超えて……思考停止からの出発」という文章を読んでいる。「思考停止からの出発」ですぞ。

談編集部による『理性の限界』の著者高橋昌一郎へのインタビューだ。『談』100号記念選集に収録されている。

「理性主義、理性信仰がますます強固になっているという感覚、それに対する朧げながらの不安、危機感が、一般にもかなり共有されている」「それがまさに三・一一大震災によって現実化し、理性・科学に対する信頼が大きく揺らぐことになりました。ここで改めて、理性主義の限界について考えてみたいと思うのです」と、インタビューは始まる。

インタビューのなかで、高橋さんは、「私は「科学と民主主義」が無意味だと言っているわけではない。そのどちらも人類が導いた最高の成果なのですが、全幅の信頼を置くような対象ではないことを実感すべきだと申し上げているわけです」と。

それはそうだとしても、現在の日本の「科学と民主主義」の実態は、あまりにもお粗末だというのが、これまた大震災後に現実化している。

だから、大衆食堂ぐらいの思考が、丁度よいというか必要といえるのだな。

ようするに、絶えず人間(自分)の限界を知っておくこと。人間(自分)を過信することから「思考停止」は始まる。ってことか。

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2018/08/18

ぶらっと通俗的な温泉散歩。

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きのうのこと。朝8時半ごろ、思い立って、どこかへ行こうということになった。といっても、いつものように、手軽に楽しめる大衆食堂のような日帰り小旅だ。スペシャルでなくていい、ベストでなくていい、緑が多く涼しく爽やかで、温泉に入って何か食べられる食堂があれば、いい気分になれる。とても普通で通俗的な願いだし、通俗がいいのですね。

そういうときはたいがいここから行きやすい、日光の戦場ヶ原から湯元のあたりへ行くのだが、まだ混雑にちがいない。ネットで調べて、同じ方面だが少し違う、湯西川温泉へ行くことにした。

その駅は何度か通ったことがあるが、トンネルの中にホームがあって、トンネルの先はすぐ五十里ダム湖の鉄橋になっていることを知っていた。忘れていたが、一度は降りてみたい駅だった。

湯西川温泉は、そこからバスに乗って奥へ行くのだが、いまから出かけてそこまで日帰りは余裕がない。ところが、湯西川温泉駅のそばに日帰り温泉浴場があるとわかった、道の駅もあるから、温泉に入って何か食べることもできる。

電車を調べたら、10時18分東大宮発の下りに乗るのが都合がよいとわかった。栗橋で東武線に乗り換え、さらに下今市で乗り換え東武線から野岩鉄道を経由して、12時44分に湯西川温泉駅に着くのだ。

10時18分より10分ほど前の電車に乗った。これがよかった。栗橋の乗り換えで20分ほど余裕があったので、早速駅の売店でにぎりめしと缶ビールを買って、ベンチに腰掛けプシュッとやる。まあ、これが通俗的な楽しみの一つのわけで。

電車は、まだ混んでいたが、うまいぐあいに座れた。車窓の眺めは、関東平野。実りが一杯の田畑のあいだに、太陽光発電のパネルが、ずいぶん設置されている。

途中はとばそう。湯西川温泉駅のホームに降り立ったら、「寒い!」。ここは標高600メートル弱。それにきのうは、連日の真夏日が途切れ、下界でもいくらか涼しかったからか。

地上に出るには、エレベーターがあったが、散歩に来たのだから歩いて階段をのぼる。トンネルのホームから階段をのぼって地上に出る駅は、以前に上越線土合駅を何度か利用した。東京から谷川岳に登るために土合駅を利用すると、この階段がキツイ。たしか何百段かあるのだ。10年ちょっと前にも行ったが、もうあそこは登れないと思いながら、あの階段の何分の一しかないのに、息を切らして地上に出る。

出ると、なんと、駅舎に接続して道の駅があるのだ。二階が温泉浴場になっている。これはいい。地上は、さすがに寒い感じはないが、肌が冷たいぐらいの涼しさ。

少し歩いて汗をかいて風呂に入ろう。いい空気の中を歩きたい、前はダム湖が広がっているし、遊歩道があるだろう。と思ったがない。それどころか道の駅の前の道路は、どちらに向かってもすぐトンネルになっている。

ここは、もぐらが狭い空き地に頭を出したようなぐあいなのだ。

それでもと思って、クルマの通りが多い道路を横断し、ダムに近づいてみようとするが、無理だった。見えているダムを渡る橋の途中まで行けたらいいのになあと思いながら、湯西川温泉駅ホームのトンネルを出るとすぐある鉄橋を上から写真に撮る。まあ、これでもいいいではないか。芸術にはベストがなく、いつだってベターであるように、風景にもベストはない、ベターを楽しむのさ。味覚もそうだね、ベストは幻想。なーんて。ダム湖は、上流で雨が降ったようで、濁った水が流れ込んでいた。

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クルマやバイクが途切れない歩道のない道路は、通俗的ではないから歩く気はしない。じゃ、風呂に入ろう。道の駅の売店を通俗的に冷やかして、2階の温泉へ。入湯料510円。ダムが見える側に広い畳の休憩室があり、若者たちがゴロゴロしている。いいねえ、畳でゴロゴロなんて、通俗的で素晴らしいが、なかなかやれなくなったな。

室内に大きな湯船、外の湯船は半分ぐらい。白濁は少々で硫黄のにおいも少々。いい湯だ。これがいいんだな、あとのビールが楽しみだ。畳で少しだけゴロゴロ。ゴロゴロしているのは若者ばかり。ここは飲食禁止なのだ。

下におりて、食堂へ。カレーライス以外は、うどんそばメニュー。ま、高めですね、仕方ないか、これ通俗というものだ。冷したぬきそば700円とビール。ビールが缶ビールのレギュラーしかない、300円。ちょっと通俗的すぎやしないかと思ったが、もちろん飲んだ。風呂上がりの一杯の通俗的なよろこびを、300円で捨てるわけにはいかない。うまいねえ。

冷したぬきそばのツユが、あまじょっぱく濃くて、栃木の山奥に来たなあと、通俗的に実感しながら、残りツユに浮かぶ天玉をもったいないからすすろうとするが、ツユが濃くてすすりきれず、通俗的に未練を残した。

食べ終わったら、1時間に一本の電車が10分後に出る、電車に乗ってどこかで途中下車しようと思ったが、行きたいところが咄嗟に浮かばない、とりあえず下今市まで買って乗った。乗ってからすぐ龍王峡についた、そうだ龍王峡はまだ行ったことがない、ここで途中下車と思ったが、下今市まで切符を買ってしまった、通俗的にもったいない。しかも、乗った電車が東武日光行きなのだ、下今市から上りにならないで日光へ下る、ほとんどの客は上りの人たちで降りてしまった。おれたちは、成り行きまかせで、通俗の観光地日光へ。

東武日光駅に着いたら、駅の売店やらがオシャレに、通俗度が高くなっている。大勢の外国人観光客がうろうろ。なんのあてもない、何度も歩いたことがある、日光の街を歩いて見るか。駅前広場から通りに出たら、景色が変わっている。なんだ、なんだ、この映画のセットのような景色は、すごい通俗的だぞ。

道路は両側の歩道が拡張され、セットバックして建て替えられたらしい建物は、みんなピッカピカの江戸風というのかな、軽いあれです。電線などは埋設してあるから、眺めのよいこと、正面には男体山がデーンと。ほんと、映画のセットのような通俗的な景色。

その道を、金谷ホテルがある方へ向かって、ぶらぶら歩く。夕方だから駅へ向かって向こうから来る人のほうが多い。いろいろな人種がいる。おれたちは、変わる街並と人並みの中を歩きながら、以前に入ったことがある、まったく江戸風化してない餃子とラーメンの店を見つけ、よろこぶ。

金谷ホテルまで半分以上は歩いたあたりで、とくにそこへ行きたいわけじゃないから、引き返す。連れが通俗的な土産物屋で通俗的な土産物を買うというので、上の食堂で生ビールでも飲んで待とうと思ったが、中生700円の値段を見てやめて、通りのベンチに腰掛け、行き交う人たちを眺める。このあたり、東武日光駅の売店以外、缶ビールを普通の値段で売っているところがない。おれは普通の通俗がいいのに。

帰りは、来る時と同じ東武線ではツマラナイ、通俗的なJRに乗って宇都宮へ出て宇都宮線で帰るのだ。JR日光駅は、昔のままの建物だ。始発だから空いていると思って座った座席は、発車近くにドカドカドカと入ってきた外国人客で埋まった。イタリア語、ポルトガル語ほかがとびかう。

宇都宮線に乗ると、普通の通勤客の景色になった。普通乗車券のみでデレデレダラダラ、湯西川温泉駅でもぐらがちょこっと地上に顔を出したようにして遊んで帰ってきたのだが、大衆食堂でめしを食べたあとのように気分がよいのだった。

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2018/08/16

お盆休みに驚いたこと。

うちの近くのよく買い物をするスーパーは、おれはCクラスに分類している。標準より少し品質が落ちる低価格帯が中心の品ぞろえで、おそらく客単価も標準より低いだろうと思われる、中の下クラスというわけなのだ。

この地域に引っ越してきて、今年で10年になるが、最近数年で外国人の客が目立つようになった。人種も、かなりいろいろで、東アジア、東南アジア、インドやネパール、中東、アフリカ、中南米、北米、ヨーロッパ、いやあ、こうやってあげてみると地球上のあらゆる地域の人々がいるではないか。

その増える外国人の存在がきわだったのが、お盆休みの、今週の月曜から昨日ぐらいだった。

日本人の数がガクンと減った店内で、お盆などはないからだろう外国人が目立った。ともすると半分ぐらいは外国人だったのではないかという感じがするときもあった。ふだんはあまり見かけない、家族連れも目立った。子供たちは、みな小さい。

こんなにいるのかと驚いた。

少し前だが、何度か見かける、東欧の人ではないかと思われる女性と3,4歳ぐらいの娘が買い物をしていた。その娘が、陳列棚を指差しては「キモい」「キモい」といって、ケラケラ笑うのだ。母親のほうは「キモい」がわからないらしく、「キモい?ペラペラペラ」と話しかける(ペラペラペラは、東欧の言葉らしい)、娘はますます「キモい、キモい」を連発してはケラケラ笑うのだった。娘は、たぶん子供たちの遊びの中で、その言葉を覚えたのだろう。覚えたばかりで、使ってみたかったのだろう。

2月頃の寒いの日のことだった。近くの公園の遊歩道を、白人の小柄な男性(ラテン系のような体格)が赤ちゃんを乳母車にのせて散歩していた。その乳母車もクラシックなものだったが、散歩する男性のファッションが紺色の上等と思われるオーバーコートに皮靴をはいて、紳士然としているのだ。そして、赤ちゃんの顔をにこやかに微笑みながら見つめ、ゆっくり散歩しているのである。枯れた木立の遊歩道、なんか映画にでもありそうな、ヨーロッパな景色だなあと思った。

かと思えば、一昨日ぐらいだったか。そういう光景とは逆で、マッチョな体格のTシャツを着た白人おとうさんが、ママチャリの後のチャイルドシートに小さな子供をのせ、ビューンと勢いよくかっとばしていった。

近くには小学校があって、下校時には、肌の色や顔かたちや髪の毛が見なれた「日本人」とは違う子たちが、見なれた日本人の子たちと、楽しそうにおしゃべりしながら帰る姿は日常だ。前は、ブラウンの肌に縮れた髪の子が、日本語を話していると、なんだか違和感があったが、今はもうそういう感じはない。

なかなか興味深い変化だ。

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2018/08/15

「終戦記念日」に『瀬島龍三 参謀の昭和史』を読む。

今日は「終戦記念日」だ。「敗戦記念日」ともいう。どちらを用いるかで、そこに「思想」をみる人たちもいる。実態としては、敗戦し終戦になった。負けていなかったと強弁する人たちもいるが、日本の歴史上初めて、外国軍隊の占領下におかれたという事実は、消えるわけではない。

ってことはともかく、これまで終戦記念日だからといって、とくに何か書くほどのこともなかったが、今年は何故か、なんだか、あの敗戦が何かを呼び掛けてくる。

それは安倍政権が強力に進める改憲論議のせいかも知れない。改憲論者が、現憲法を占領軍の「押しつけ」をいうほど、あの敗戦と占領の事実が大きくふくらむ。

四月と十月文庫『理解フノー』にも書いたが、あの戦争で、父の弟が南の海で戦死し、母の弟二人は南方の激戦地から復員したものの、戦地で罹ったマラリアのため病死した。

それはともかく、先日、浦和の古本屋で保阪正康の『瀬島龍三 参謀の昭和史』(文春文庫)を買ったので、読んでいる。

瀬島龍三は、昭和16年の日米開戦ときも、18年の敗戦のときも、大本営の参謀として重要な役割を担った男だ。シベリア抑留から帰国したのち、伊藤忠の「参謀」として存在感を強め、イマの日本の流れのポイントになった中曽根内閣の「参謀」として臨調で腕をふるった。これほど日本の歴史の要所で何かしらの力を行使できる立場で関わった人物は、いないだろう。

保阪正康の本を読むのは初めてだが、調査や取材が徹底している、そしてあの戦争を構造的にあきらかにしていく手腕が、なかなかすごい。

瀬島龍三を主人公のモデルにした山崎豊子の『不毛地帯』は、あれは小説だから作り話だね、ということはわかっているつもりだったが、さほど真実の姿に近づいていたわけではないことを自覚する。

いま第二章の「大本営参謀としての肖像」を読んでいるところだが、父の弟や母の弟たちが戦死や戦病死した「対南方作戦」が立案され実行されていく場面は、瀬島龍三とあの戦争の虚像をはがしていく迫力がある。

ってことで、今日はあわただしいので、ここまで。

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2018/08/14

右「か」左「か」。おれの分銅。

四月と十月文庫『理解フノー』に、「右と左」を書いている。「右」は「右翼」の「右」であり、「左」は「左翼」の「左」で、そこに「右党」と「左党」をからめた。

さらに、恫喝の現場をチラッと書き、保革逆転がありうるかと騒がれた1974年7月7日投票の第10回参議院選挙に関わったおれの仕事にふれている。それは全国区で自民党から立候補し200万票以上を獲得して当選した宮田輝事務所の仕事のことで、短い文なのであまり詳しくはないが(といっても、あまり詳しく書く気はしないのだが)、最後にこう結んでいる。

「熱い夏だった。この夏に保革逆転を許さなかった自民と、逆転できなかった「革新」の「差」は大きく、いまでも続いているようだ。」

当時は「保守か、革新か」という言われ方をしていた。この選挙結果は、たとえば、近代日本総合年表(岩波書店)に、「自民62、社会28、公明14、共産13、民社5、7議席差の保革伯仲」とあるように、保守は自民62で革新は社会28+公明14+共産13=55というぐあいで、民社は除外されている。民社は、「反共」が党是というか、とにかく「反共」大事で、自民党を除く野党共闘には参加しなかったし、自民党と共同歩調をとることもあったからだろう。こういうのを「中立」というのだろうか。

やがて民社は解党、その流れはややこしいことになっている。公明は自民と連立を組んだ。

いまはもう「保守か、革新か」という言い方を見ることもない。だけど「右翼」「左翼」や「右派」「左派」という言い方はある。かつてはなくて、よく目にするようになったのは、「リベラル」だ。これは「リベラル・左派」とまとめられることもあるようだ。

しかし、そんな単純なくくりでは実態の把握はできない。これらの言い方は実態を反映していないし、ご都合主義的に使われているだけだ。

そのご都合主義は、「ワタクシ、右よ」「ワタクシ、左よ」というより、「アンタ、右だからダメ」とか「アンタ、左だからダメ」とか、「ワタクシ、右でも左でもない中立よ」とか「右でも左でもない普通の日本人です」といったぐあいに使われることが多いようだ。

「右でも左でもない普通の日本人です」は、いわゆる「ネトウヨ」とかいう人たちが好んで用いているらしいのだが、それはともかく「普通の日本人」だから正しいとか、「右でも左でもない中立」だから正しいみたい言い方は、チョイと論理的にもおかしいし幼稚すぎるだろう。

だけど、こういう傾向は、よく見かけるのだな。激しく対立していると、「極論は、いけない」とか「感情的なのは、いけない」とか「情緒的なのは、いけない」とか。

それ以前に自分自身の考えはどうなのだ、どうしたいんだ、と思ってしまうね。

ほんらいは、まず、自身がどんな社会や国家や政治をのぞむかの考えがあるはずだろう。その「どんな社会や国家や政治をのぞむか」という話は出ないで、「右でもない左でもない」とかワタクシは冷静で客観的で正しいというポーズの言葉が踊る。

けっこうメディアで活躍していたり、たくさん本を読んで知識もありそうな人が、そういうことだから、ずいぶん単純なアタマなのだなあとボーゼンとすることが少なくない。

ということに関係しそうなのだが、最近インターネットで、「天秤」の図が入った、「○○か、××か」という記事を見た。

ページが見つからないので何の話だったか忘れたが、二項対立にして、どちらを選ぶかとか、どちらが正しいかという話題は、よくある。以前には、「野球か、サッカーか」なんてのがあって煽られたりした。

昔からよくあるのは、「量か質か」というやつで、これはもう「量か質か」という問題の立て方そのものがどうかしているのだけど、よくある。見た目は、そういう場面がよくあるからだろう。皮相的であり、「矛盾」について知らないのか理解が足りないのか。

その「天秤」の図は、天秤ばかりの図だったのだが、片方に皿に「○○」がのり、片方の皿に「××」がのっていた。

「天秤にかける」ということについて、いかにもイメージしそうな図なのだが、オカシイ。天秤ばかりというのは、片方の皿に量る対象をのせ、片方の皿には分銅をのせて量る。

それでないと、「○○」と「××」は比較できないはずなのだ。

だけど、口車では、比較の仕方を誤ったまま、さも正しそうにしているリクツが少なくない。

「○○か、××か」なんていう二項対立の考え方は、ほとんどそうだ。

「文化的資産」や「文化的地位」がひとより「上」と思っている人たちに、けっこういるのは、どういうことだろう。

「分銅」について考えてないのか。

「右か、左か」「右でもない、左でもない」なんてことじゃない。自分が、どうしたいかなのだ。「おれの分銅」を持つことだ。

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2018/08/13

東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」69回目、森下町・はやふね食堂。

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先月20日に掲載の「はやふね食堂」、すでに東京新聞のサイトでご覧にいただける。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2018072002000197.html

ここは4月6日に発売の『dancyu』5月号の「美味下町」という特集でも取材して書いた。

詳しくはこちらを見ていただきたいのだが→2018/04/13「『dancyu』5月号「美味下町」ではやふね食堂を取材した。」にも書いたように、森下町より「深川」のほうが通りがよいだろうし、深川は大正から昭和の初期には、都内で最も「飯屋」や「食堂」が集まるところになっていた。

というのも深川は江戸の物語を宿す町だけど、近代化の流入する労働者でふくらんだ町なのだ。町工場も多く、1945年3月10日の東京大空襲の最初の爆弾は深川に落とされ、激しい爆撃を受け焼け野原になった。

はやふね食堂のご主人は、1944(昭和19)年生まれで、おれより1歳若いのだが、家族で疎開をしていて無事だった。そして、焼け跡にもどった一家の、ご主人のおかあさんが焼き芋やかき氷を売ることから始めた。ご主人は、目の前の深川小学校を卒業し、成人すると食堂を手伝うようになり跡を継いだ。

というわけで、東京新聞でのはやふね食堂の掲載は、「終戦」と「戦後」をからめて載せたいと思い、このように書き出した。

「 深川小学校の校門のすぐ前にある。かつては深川区だった。1945年3月10日の東京大空襲では最初の爆弾が深川に落とされ、一帯は焼け野原になった。47年、深川区は城東区と合併し江東区になった。焼け跡からの復興、はやふね食堂は焼き芋やかき氷を売ることから始まった。戦前から労働者が多い町だったが、戦後も木賃宿街が形成され、労働者のための食堂が並んだ。その中で今でも続いている一軒だ。」

当時はサツマイモが主食がわりにもなっていた時代であり、この連載で以前に掲載し、去る6月6日発売の『dancyu』7月号の「本気の昼めし」特集でも取材して書いた「動坂食堂」も、焼き芋を売ることから始まっている。

はやふね食堂も動坂食堂も、焼き芋から惣菜も売るようになり、食堂になったのだ。つまり家庭の手料理から始まった。

はやふね食堂は、そのままを続け、この土地のありふれたおかずでめしを食べる、メニューには定食も丼物もない。この、おかずもみそ汁もうまいんだな。

「漬物は40年の糠(ぬか)床が醸す味。その歳月以上に使い込んだアルマイトのおぼんまで、味わい深い」と書いたが、アルマイトのおぼんは、40数年前におかみさんが嫁に来た時には、すでにあったそうだ。そのアルマイトのおぼんと40年の糠味噌が入った樽が重なった写真を撮ってあったので、ここに載せておく。dancyuなどでは、けっして見られない。

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2018/08/12

喉に刺さった魚の骨。

酒場のカウンターで隣に座ったのが、イキのいい看護師だった。会うのは二回目だが、このとき、彼女は病院の看護師で、最近は救急を担当していると知った。

彼女の話によると、いちばん多い「患者」が、魚の骨が喉に刺さった老人と子供だという。

土用の日には、うなぎの骨が喉に刺さった老人や子供が10人近く来たと聞いておどろいた。

おれはうなぎの食べ方が足りないせいか、うなぎの骨が喉にささることも知らなかったが、「土用」ということで、そんなにうなぎを食う人がいて、そんなに骨が喉に刺さるものなのか。

彼女がいうには、うなぎの骨は刺さりやすいらしい。

いちばん多いのはあじの骨だという。それはわかる、おれも子供の頃、何度かあじの骨が喉に刺さり、するとごはんをかまずに飲めといわれたり、それでとれないと、父がピンセットか何かでとってくれた。

小学校に上がる前のことで、白熱灯の下で、おれは口をあけ、父がとってくれたのだ。そういうことが何度かあったが、たいがいあじの骨だったという記憶がある。小学生以後は、魚の骨が喉に刺さった記憶はない。

魚の骨が喉に刺さった人は、救急車で来るのだろうか。

ほとんど家族が運転のクルマかタクシーだそうだ。ま、そうだろうな。

たかが魚の骨が喉に刺さったぐらいで、と、思ったが、彼女はたかがじゃないという。小さなトゲだってイヤなものでしょ。

ちゃんとレントゲンをとって処置するのだそうだ。

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2018/08/11

奇妙な情熱にかられている人による、奇妙な情熱にかられている人たちの本。

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昨日のエントリーで「奇妙な情熱にかられている人間」という言い方をしたが、おれの周囲で奇妙な情熱にかられている人間たちの第一人者というと、南陀楼綾繁さんになるだろう。

彼の近著の2冊、昨年11月にビレッジプレスから発行の『編む人 ちいさな本から生まれたもの』と、最近の『蒐(あつ)める人 情熱と執着のゆくえ』(皓星社)は、まさに奇妙な情熱にかられている人・南陀楼綾繁による、奇妙な情熱にかられている人たちのインタビュー集として、秀逸だ。

『編む人』を頂戴したあと、年が変わって1月に、下北沢のB&Bで牧野伊三夫さんとおれのトークがあったとき、南陀楼さんとビレッジプレスの五十嵐さんが来てくれた。

トークのあと、短い立ち話でおれは、南陀楼さんと五十嵐さんにごく簡単に感想をいった。酔っていたけど、シラフでも同じ。

「変態の人の本だね、変態だよ」てなことをいったのだ。

南陀楼さんは、たしか、「エンテツさんからすれば、そうかもなあ」って、やや困惑の表情だった。

混雑していてゆっくり話ができなかったので、それだけのやりとりで終わった。あとで考えると、おれは、「変態」は賛辞のつもりで使ったのだが、どうも南陀楼さんにはそこのところが伝わっていないのではないかという気がした。

ま、それでも別にかまわないが、先日、中原蒼二さんの『わが日常茶飯 立ち飲み屋「ヒグラシ文庫」店主の馳走帳』(星羊社)の出版記念パーティーで会ったので、普通に褒め直しておいた。

おれは、「野暮」だの「変態」だのを、プラスやポジティブの方向性で使うのだが、なかなか伝わりにくい。苦労します。

で、同じ変態傾向でも「奇妙な情熱にかられている」度からすると、最近の『蒐める人』は、その度合いがはるかに高く、「奇人変人」といっても差し支えない人たちばかりが登場する。

だいたい「好事家」とか「蒐集家」といった人たちは、時間や金はほとんど好きなことに費やす、ほぼ「奇人変人」のたぐいだからね。

どちらも、登場する人たちは「本」に関係する人たちばかりだ。

だが、業界内の自分や自分の作品の立ち位置とかに執着するのではなく、本の先を見つめているし、見つめている眼差しが人間として素晴らしい。

だから、あまり本の世界に興味がないおれが読んでも、いろいろな人生やニンゲンの話として読めて、しかも、とにかく南陀楼さんはインタビューの名手だから、核心的なところをうまく聞きだしてまとめている。

で、おれは、春日武彦さんの『奇妙な情熱にかられて ミニチュア・境界線・贋物・蒐集』(集英社新書)を思い出し、本棚にあるはずのそれを探しているところなのだ。

編集だの蒐集だのは、おれの最も苦手とするところだが、その変態性については高く評価しているのだ。近ごろの変態性のない編集だの蒐集だのは、じつにツマラナイけどね。だからこそまた、この2冊は輝く。とはいえ、仮におれがもっと若くても、この人たちのような生き方はしないだろうけど。

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2018/08/10

汚れ系とルーズ系。

去る8月1日、面白い顔合わせで飲んだ。おれのほかに3人、むさくるしい男ばかり。一人は初対面だが、おれは彼の親友とは知り合いで、いつか会いたいと思っていた。

ほかの二人は、それぞれには会ったり飲んだりしているが、3人顔を合わせるのは、かなりひさしぶりだ。かつては、よく飲んだりしていたのだが、近ごろはこのブログにも名前が登場しない、仲違いしたのかと思っている人もいるらしい。

もっとも近ごろは、どこで誰と飲んだなどは、あまり書かないようにしている。

それはともかく、場所は、神田小路。このメンツにはふさわしい場所だ。

何か用があってのことではなく、ただ成り行きで一杯やろうということになったのだから、こういう飲み会は、なかなかよい。

おれのほかの3人は、おれからいわせれば、かなり「奇妙な情熱にかられている人間」だ。それも、支配的なモノカルチャーの傾向とは反対に、「下層」や「汚れ」の方に情熱が向いている。ま、キレイなことには手を染められない、猥雑系ですね。

というわけで、気取った人たちが眉をひそめそうな健全な話に興じているうちに、時間が過ぎた。

昨日のことに関連するが、この4人、あまり売り上げにも利益にも貢献しない「生産性」の低い人間だ。なかでも、おれが年齢的にも最も生産性が低い。

それにしても、おれはここのところ「汚れカルチャー」から離れていたなと反省した。東京新聞の連載なんかやったり、たまにだがdancyuなんかにも書いたりしているから、知らず知らずのうちにそうなったのかな。旧活字文化系のメディアは、あいかわらずのモノカルチャーだから、飲みこまれやすい。気をつけよう。

今朝寝床の中で思い出したこと。

かつて「ルーズなシステム」がいわれたことがあった。「ルーズ」というと、善/悪二分法が主流の日本ではたいがい「悪」な扱いだが、ルーズなシステムとは「フレアー・スカート」のシステムであり、対極は「タイト・スカート」つまり「タイトなシステム」だ。善悪で片づけることではない。

それなのに、タイトな考えは、排除的になるから、ルーズは排除の対象でしかない。ルーズ=生産性低い=悪=排除、というわけだ。こういうモノカルチャーに対抗するには、もっとルーズに、もっと汚れ文化を、ということですね。

昨日の例の大衆酒場は、ルーズなシステムで動いているのであり、大衆食堂もルーズなシステムのところが多い。それが魅力にもなる。

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2018/08/09

生産性の仕組みと仕組みの生産性。

先月の7月18日に発売の「新潮45」8月号(新潮社)に寄稿の、自民党衆議院議員・杉田水脈議員の文章が問題になり、「炎上」の騒ぎになっていた。まだ波及的に続いているようでもある。

おれはその記事を読んでいないのだが、「LGBTのカップルのために税金を使うことについて賛同が得られるものでしょうか…彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです」ということだったらしい。

とにかく、それで「生産性」と「差別」の関係にまで、ざわざわ「炎上」騒ぎになった。

まあ、そのこともあるが、そもそも杉田水脈あたりに書かせた新潮社も哀れだし、出版業界の衰退と泥船状態をあらわしているなあ、またもや、2018/07/13「「芥川賞候補作盗作疑惑騒動」ってやつ。」に書いたような現象も見られ、いやはや状態だった。

それはとにかく、「生産性」が話題になったおかげで、ずいぶん考え方の違いがあるのは、当然なのかもしれないが、興味あることだった。そして、違いはあるけど、杉田の主張に対し批判的であれ同調的であれ、大勢は、80年頃までの工業社会での価値基準による「生産性」だということが面白かった。

このあいだ、「生産性」を考える場面に遭遇した。

おれがときどき行く大衆酒場でのことだ。そこは大きなフロアーを、高齢のおばさんたちが受け持っている。そのおばさんたちが個性それぞれだし、いまどきの「効率第一」のシステムで動いているのではなく、彼女たちが人気でもある。

マイペースだけどせっせとやっており、注文を取りに来るのが遅いことがあったりしても、ゆるい雰囲気を、大方の客はよしとして楽しんでいる。しかし、彼女たちも年々だんだん弱ってきて、おばんさんでも、いくらか若いスタッフもいるようになった。

このあいだ行ったとき、いつものように、おばさんたちはせっせと動いていた。客席は8割方埋まっていたが、おばさんたちはいつもと同じペースで動いていた。客が呼んでいるのに気がつかなかったり、「はいよ」と応えてそのままになったり。おばさんたちはヨロヨロよりは少しましな感じで、せっせと動いていた。それで、それなりにスムーズの回転をしていて、客席もいつものようになごんでいた。

それが、目立って乱れた。のろのろでもスムーズだった動きが、乱れだしたのだ。そのうち、叱る女性の声が聞こえた。のろのろばさんに向かって「叱る」というより、短く鋭く「ののしる」感じだった。この酒場で、そういう声を聞くのは初めてのことだった。にぎやかで気がつかない客が多かったが、おれはその近くにいたのでわかった。

彼女は初めて見る、その時間頃から勤務につくらしい、いくらか若い中年の女性で、フロアーを仕切る立場の人のようだった。身体の動き、話し方からして違う。ほかの前からいるおばさんたちより、20歳以上は若そうに見えた。多くの酒場ではそうであろう、キビキビした動きだった。

もちろんこれまでも、そういう立場の人はいたようだが、「ナントカ長」という感じの「上」を感じさせることはなく、みな一つのフラットでのろのろなシステムで動いていたのだ。そういう光景は、初めてだった。

この「上」を感じさせるいくらか若い女性があらわれてから、ほかのおばさんたちがキンチョーしているのが、はっきり伝わった。

おばさんたちは、彼女のほうに気を使って、のろのろがおどおどな動きになり、スムーズな動きが乱れた。そのために、より注文が通りにくくなったように見えた。すると、そのより若い女性が、ささっと動くのだった。でも、酒場は大きくて、絶対に一人ではカバーできない。

そこでおれは、「生産性の仕組みと仕組みの生産性」ということを思い出したのだった。

個人として生産性の高い人ばかりを集めれば、全体の生産性は高まるか。その生産性は、どのくらいの期間で計算するのが妥当なのか。

個人の生産性の合計としての全体の生産性を計算していたのでは、仕組み=システムの生産性を考える能力は育たない。

子育てだって、同じことがいえる。

ま、子供を産むのを「生産性」で考える頭はどうかしているということはおいといても。

生むのも育てるのも自己責任の「生産性」なら、もうシステム(仕組み)の成長はない。

そもそも人間は社会的に生きているのだからなあ。

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2018/08/08

円盤企画「URCレコード全部聴く会」。

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今月になって初めてだし、ひさしぶりの更新だ。

ここのところ、何に惹かれているかというと、「URC」と「ムードコーラス」と「タンゴ」なのだ。

これ、高円寺の円盤の田口史人さんのせいなのだ。

4月から毎月第4木曜日に、北浦和の居酒屋ちどりで、田口さんが「円盤企画「URCレコード全部聴く会」」というのをやっている。

おれは初回の4月は逃してしまい、2回目の5月から行っている。これが面白い。

そのうえ、5月のとき、そこで販売されていた、「円盤レコブックスシリーズ」の、「ネオンの海にコーラスは流れる ムードコーラス血風録」と「日本のタンゴ」ってのを買ったのだが、これが、めっぽう面白い。

5月の「URCレコード全部聴く会」の翌日から、おれはyoutubeで、田口さんが資料として配布した「URC周辺年譜」というのを見ながらURCのミュージシャンの歌を拾ったり、「ムードコーラス血風録」「日本のタンゴ」を読みながら曲を聴いたりし、また田口さんの話を思い出し、そしてインターネットで調べたりするのが、日課になってしまった。

もう面白くてたまらん状態。

そんなこともあって、ブログもツイッターもほったらかしだ。

「ムードコーラス血風録」も「日本のタンゴ」も、戦後日本の復興期つまり1950年代からが主な舞台で、URC=アングラ・レコード・クラブは69年のスタートだ。

ようするに大衆文化や大衆食堂がガンガン勢いをつけていた頃だ、おれにとっては10代から20代。

あの頃、何があったかをふりかえり、そしてふりかえることはイマを知ることでもある。

記憶はアイマイだから記憶に頼るのはキケンだ。そこへいくと、記録された音楽は、いろいろなことを語ってくれる。

さらに、田口さんのトークも文も名調子で、わかりやすい。

音楽そのものだけではなく、その歌手や曲やレコードなどが生まれ流行しあるいは衰退していく変化、その社会の状況や構造などが、根掘り葉掘りじつに明快だし、ああ、人にも歌にも、すごいドラマがあるのだなあと思いながら、田口さんの文を読みyoutubeで聴いていると、そんなことがあったのか、なるほどそう見るのかと気づくことも多く、あまり語られることのない、ニンゲンの戦後史がどんどん浮かびあがってくるのだった。

面白くて、ほかのことをする気がおきない。どっぷりハマっている。

「ネオンの海にコーラスは流れる ムードコーラス血風録」も「日本のタンゴ」も、パソコン制作でA4袋とじに印刷し、50数ページから60ページぐらいに平とじしたものにパソコン加工の表紙をつけたもの。

見た目は粗末だが、中身の濃さは、すごいものがある。ハッタリをかまさない、カッコつけない、エラそうにしないを地でいっているのは、田口さんそのものでもあるようだ。

「ネオンの海にコーラスは流れる ムードコーラス血風録」の表4にある文は、こうだ。

「日本が世界に誇るべき真にオリジナルな音楽、ムードコーラスの大きな潮流を追うレコード・ドキュメント。高度成長、中流安定社会、バブルを潜り抜けた夜の巷に生きる者たちの知恵と業。そこに息づく人々の悲喜交々に涙と怒りとため息が・・・・・・嗚呼!」

「日本のタンゴ」の表4にある文は、こうだ。

「世界的なレベルに達しながら現場を失ってしまった悲劇の日本タンゴ。その人々と音楽の栄枯盛衰、情熱と誇り、意地と事情の悲喜交々。そしてアルゼンチン、ヨーロッパのタンゴ者たちと日本の濃密な交流をレコードで追う。可能性の宝庫、日本タンゴのレコード曼荼羅。」

どちらも、「夜の営業」が深く関係した。グランドキャバレーやクラブが華やかなりし頃が「現場」だった。やがてテレビの登場で、生活だけではなく音楽も変わる。変わり目だからこそ上昇するものもあれば下降するものもあり、しぶとく生き抜くものもある。おれたちの「生存力」の歴史でもある。おれたちはいま、どこに立っているのか。

これらは田口さんの名著『レコードと暮らし』(夏葉社)のテーマ別展開という感じですね。

今月の居酒屋ちどりでの「URCレコード全部聴く会」は、23日ですからね。そこに来れば、「ネオンの海にコーラスは流れる ムードコーラス血風録」も「日本のタンゴ」も買えるでしょう。

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