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2018/08/14

右「か」左「か」。おれの分銅。

四月と十月文庫『理解フノー』に、「右と左」を書いている。「右」は「右翼」の「右」であり、「左」は「左翼」の「左」で、そこに「右党」と「左党」をからめた。

さらに、恫喝の現場をチラッと書き、保革逆転がありうるかと騒がれた1974年7月7日投票の第10回参議院選挙に関わったおれの仕事にふれている。それは全国区で自民党から立候補し200万票以上を獲得して当選した宮田輝事務所の仕事のことで、短い文なのであまり詳しくはないが(といっても、あまり詳しく書く気はしないのだが)、最後にこう結んでいる。

「熱い夏だった。この夏に保革逆転を許さなかった自民と、逆転できなかった「革新」の「差」は大きく、いまでも続いているようだ。」

当時は「保守か、革新か」という言われ方をしていた。この選挙結果は、たとえば、近代日本総合年表(岩波書店)に、「自民62、社会28、公明14、共産13、民社5、7議席差の保革伯仲」とあるように、保守は自民62で革新は社会28+公明14+共産13=55というぐあいで、民社は除外されている。民社は、「反共」が党是というか、とにかく「反共」大事で、自民党を除く野党共闘には参加しなかったし、自民党と共同歩調をとることもあったからだろう。こういうのを「中立」というのだろうか。

やがて民社は解党、その流れはややこしいことになっている。公明は自民と連立を組んだ。

いまはもう「保守か、革新か」という言い方を見ることもない。だけど「右翼」「左翼」や「右派」「左派」という言い方はある。かつてはなくて、よく目にするようになったのは、「リベラル」だ。これは「リベラル・左派」とまとめられることもあるようだ。

しかし、そんな単純なくくりでは実態の把握はできない。これらの言い方は実態を反映していないし、ご都合主義的に使われているだけだ。

そのご都合主義は、「ワタクシ、右よ」「ワタクシ、左よ」というより、「アンタ、右だからダメ」とか「アンタ、左だからダメ」とか、「ワタクシ、右でも左でもない中立よ」とか「右でも左でもない普通の日本人です」といったぐあいに使われることが多いようだ。

「右でも左でもない普通の日本人です」は、いわゆる「ネトウヨ」とかいう人たちが好んで用いているらしいのだが、それはともかく「普通の日本人」だから正しいとか、「右でも左でもない中立」だから正しいみたい言い方は、チョイと論理的にもおかしいし幼稚すぎるだろう。

だけど、こういう傾向は、よく見かけるのだな。激しく対立していると、「極論は、いけない」とか「感情的なのは、いけない」とか「情緒的なのは、いけない」とか。

それ以前に自分自身の考えはどうなのだ、どうしたいんだ、と思ってしまうね。

ほんらいは、まず、自身がどんな社会や国家や政治をのぞむかの考えがあるはずだろう。その「どんな社会や国家や政治をのぞむか」という話は出ないで、「右でもない左でもない」とかワタクシは冷静で客観的で正しいというポーズの言葉が踊る。

けっこうメディアで活躍していたり、たくさん本を読んで知識もありそうな人が、そういうことだから、ずいぶん単純なアタマなのだなあとボーゼンとすることが少なくない。

ということに関係しそうなのだが、最近インターネットで、「天秤」の図が入った、「○○か、××か」という記事を見た。

ページが見つからないので何の話だったか忘れたが、二項対立にして、どちらを選ぶかとか、どちらが正しいかという話題は、よくある。以前には、「野球か、サッカーか」なんてのがあって煽られたりした。

昔からよくあるのは、「量か質か」というやつで、これはもう「量か質か」という問題の立て方そのものがどうかしているのだけど、よくある。見た目は、そういう場面がよくあるからだろう。皮相的であり、「矛盾」について知らないのか理解が足りないのか。

その「天秤」の図は、天秤ばかりの図だったのだが、片方に皿に「○○」がのり、片方の皿に「××」がのっていた。

「天秤にかける」ということについて、いかにもイメージしそうな図なのだが、オカシイ。天秤ばかりというのは、片方の皿に量る対象をのせ、片方の皿には分銅をのせて量る。

それでないと、「○○」と「××」は比較できないはずなのだ。

だけど、口車では、比較の仕方を誤ったまま、さも正しそうにしているリクツが少なくない。

「○○か、××か」なんていう二項対立の考え方は、ほとんどそうだ。

「文化的資産」や「文化的地位」がひとより「上」と思っている人たちに、けっこういるのは、どういうことだろう。

「分銅」について考えてないのか。

「右か、左か」「右でもない、左でもない」なんてことじゃない。自分が、どうしたいかなのだ。「おれの分銅」を持つことだ。

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