奇妙な情熱にかられている人による、奇妙な情熱にかられている人たちの本。
昨日のエントリーで「奇妙な情熱にかられている人間」という言い方をしたが、おれの周囲で奇妙な情熱にかられている人間たちの第一人者というと、南陀楼綾繁さんになるだろう。
彼の近著の2冊、昨年11月にビレッジプレスから発行の『編む人 ちいさな本から生まれたもの』と、最近の『蒐(あつ)める人 情熱と執着のゆくえ』(皓星社)は、まさに奇妙な情熱にかられている人・南陀楼綾繁による、奇妙な情熱にかられている人たちのインタビュー集として、秀逸だ。
『編む人』を頂戴したあと、年が変わって1月に、下北沢のB&Bで牧野伊三夫さんとおれのトークがあったとき、南陀楼さんとビレッジプレスの五十嵐さんが来てくれた。
トークのあと、短い立ち話でおれは、南陀楼さんと五十嵐さんにごく簡単に感想をいった。酔っていたけど、シラフでも同じ。
「変態の人の本だね、変態だよ」てなことをいったのだ。
南陀楼さんは、たしか、「エンテツさんからすれば、そうかもなあ」って、やや困惑の表情だった。
混雑していてゆっくり話ができなかったので、それだけのやりとりで終わった。あとで考えると、おれは、「変態」は賛辞のつもりで使ったのだが、どうも南陀楼さんにはそこのところが伝わっていないのではないかという気がした。
ま、それでも別にかまわないが、先日、中原蒼二さんの『わが日常茶飯 立ち飲み屋「ヒグラシ文庫」店主の馳走帳』(星羊社)の出版記念パーティーで会ったので、普通に褒め直しておいた。
おれは、「野暮」だの「変態」だのを、プラスやポジティブの方向性で使うのだが、なかなか伝わりにくい。苦労します。
で、同じ変態傾向でも「奇妙な情熱にかられている」度からすると、最近の『蒐める人』は、その度合いがはるかに高く、「奇人変人」といっても差し支えない人たちばかりが登場する。
だいたい「好事家」とか「蒐集家」といった人たちは、時間や金はほとんど好きなことに費やす、ほぼ「奇人変人」のたぐいだからね。
どちらも、登場する人たちは「本」に関係する人たちばかりだ。
だが、業界内の自分や自分の作品の立ち位置とかに執着するのではなく、本の先を見つめているし、見つめている眼差しが人間として素晴らしい。
だから、あまり本の世界に興味がないおれが読んでも、いろいろな人生やニンゲンの話として読めて、しかも、とにかく南陀楼さんはインタビューの名手だから、核心的なところをうまく聞きだしてまとめている。
で、おれは、春日武彦さんの『奇妙な情熱にかられて ミニチュア・境界線・贋物・蒐集』(集英社新書)を思い出し、本棚にあるはずのそれを探しているところなのだ。
編集だの蒐集だのは、おれの最も苦手とするところだが、その変態性については高く評価しているのだ。近ごろの変態性のない編集だの蒐集だのは、じつにツマラナイけどね。だからこそまた、この2冊は輝く。とはいえ、仮におれがもっと若くても、この人たちのような生き方はしないだろうけど。
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