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2018/09/27

「サザエさん」や「ちびまるこちゃん」の世界からのテイクオフ。

「ちびまるこちゃん」のさくらももこが去ったあたりで、やっぱり、平成30年間というのは、あと少し残っているにしても、「昭和」を消費しながら生き延びてきただけかという実感が、さらに深まった。

またもや『スペクテイター』42号「新しい食堂」のことになるが。

おれが寄稿した「結局、食堂って何?」の原稿を書いていたときは、さくらももこが闘病中であることすら知らなかった。

そこには、こういう文章がある。

「食堂が根をはった日常が大きく動いたのは、一九八〇年代だ。それまでは、たいがい収入差はあっても、成長する工業社会のもとで工場のサイレンに合わせるかのように同じリズム同じ方向を維持し、終身雇用年功序列の同じ出世双六ゲームを競っていた。日常もわりとわかりやすかった。「サザエさん」や「ちびまるこちゃん」の世界だ。」

これを書いているとき、ふと、平成30年間というのは「昭和」を消費してきただけではないかとおもったのだが、さくらももこの訃報を聞いて、「ふと」が「実感」になったようだ。

80年代に入ってからは、とくに「多様化」がいわれ、それまでの工業社会的な「近代」に対する批判や人間の「多様性」に関する言説があふれた。それはまた「個性化」ともいわれた。

引き続き、「結局、食堂って何?」から引用すれば、

「八〇年代中頃になると、「人並みから自分並みへと生活価値基準のシフト」「個人を主役として生活をグランドデザインする時代」といったぐあいに、全体的な枠組みが変わった。/「人並み」より「自分」「個人」が基準になった、ということだった。」

しかし、多様化や個性化で、「みんなが同じ方向のグレードやランクをめざすのではない」はずだったのに、そうはならず、みんなで同じ方向のグレードやランクを競った。

その結果、スターバックスがあるような街が「いい街」みたいな、職人の手仕事みたいな丁寧な仕事が上品質というような、均一化がすすんだ。

「質」が課題になっても、質というのは方向や構造によって異なるはずなのに、70年代までの単一の方向と構造のなかの価値観で上下や優劣をつけることが、いまでもメインストリームあたりでは続いているのだな。これは、山下清の話に出てくる「兵隊の位でいったら」という序列になる、軍隊式の価値観や構造でもあるのだが、企業や業界に依然としてはびこっている。

すごく陳腐なことだけど、あいかわらず比べること自体がおかしい質を比べて、どっちが「上」か「下」かなんて話がマジメ顔で流通している。

おれがチョットだけからんでいる出版や編集という世界でも、続く不況のなかで「いいもの作りましょう」「いい本をつくれば売れる」みたいなことで励まし合う微笑ましい景色があるのだけど、その「いい」を決める方向性や尺度は議論にならない。そして、メインストリームあたりのメディアに書いている人たちが、価値や評価の決定者であるかのように、エラそうにしている。近ごろは、そういう腐敗がすすんで、噴出するジケンもあるが、大勢はイノベーションの気配すらない。

「私は、いい仕事をし、いいものを作っている」と、けっこう多くの人たちが思っている。自分を高く、他者を低く見ることだけが、得意なのだ。モノサシは一つだけの、あの昭和から一歩もテイクオフしてないかんじ。

高い低い、上か下かではない、多様性なのだ、というところへ、なかなか議論がすすまない。80年代からだいぶたっているのに。これこそ日本経済の低迷の原因ではないかと思いたいぐらいだ。

「もともと個性だの個人だのは軽んじられていたのだから理解の外だった。今だって、軽んじられているけどね。けっきょく七〇年代までの序列思考を飲食のジャンルや単品ごとにはめこみ、「自分並み」ではなく、人並み以上をめざした。ようするに、ケッ、人並み以上の突出が「個性」ということだったのだ。」

70年代までだって、個性や個人は存在した。それは、一つの方向の価値観を共有する大きな集団のなかでのことで、個性や個人が中心だったわけじゃない。そういう方向に対する、カウンターカルチャーもあり、アウトローといわれる人たちもいたし、オチコボレといわれる人たちもいた。そういう人たちが「いた」のではなく、そういう人たちを生む「単一の価値観」が支配的だったのだ。

大衆食堂は、そういう価値観の体系のなかで、「落ちぶれても町の食堂にだけはなるな」といわれるほど低層に位置づけられていた。

そして平成30年間の不況のなかで、「昭和」や「大衆」をオリエンタリズムから見るような視線で、ネタとして消費する対象になったりもした。カルチャーとしての評価は低いままだ。大衆食堂で飲んで歩くようなことを商売にする人たちは、カルチャーであるようなのだが。

現場の働きや現場で働く人はカルチャーでなく、それを「取り上げる」メディアとメディア側の人たちだけがカルチャーになる。これこそ、70年代までに根強くはびこったものなのだ。

これはまあ、大きな流れのことで、メインストリームあたりでは「サザエさん」や「ちびまるこちゃん」の世界からのテイクオフはヨタヨタしているが、それとは異なるインディーズの小さな飛行機は次々にテイクオフしているってことでもある。「新しい食堂」は、そういうことだと思うね。

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