生活することを肯定する。
『Meets』9月号を見ていたら、チョイと気になることを、津村記久子が書いていた。
それは、前のエントリー「自分たちの普通の日常を大切にするカルチャー、それぞれの普通の生活を肯定するところからスタートするカルチャー」に関係することだ。
津村の連載「素人展覧会」は、最も愛読しているもので、これがきっかけで津村記久子の作品を読むようになった。おれはイマドキの文芸書なるものはあまり読まないし、ほとんど買わないのだが、津村の作品だけは、けっこう買って読んでいるぐらい、この作家が気になっている。ま、気に入っている。
そういえば、以前、このブログに「津村記久子が気になっている。」ってのを書いたことがあるな。2015年6月22日だ。
https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2015/06/post-a5d0.html
今回の「素人展覧会」は、「いやもう本当にかわいい」のタイトルで、芦屋市立美術館の「チャペック兄弟と子どもの世界」を観に行っている。そのなかに「ミンダ、すなわち犬の飼い方」という作品の話がある。弟カレルの話に兄ヨゼフのイラストで、彼ら兄弟が初めて飼った犬のミンダを主題にしているとのことだ。
それを眺めていると、と津村は書く。
「彼らがどれだけ自分たちの日常を愛していたかが伝わってくる。時代がどうであろうと犬はかわいいし、生活することを肯定する作品を作りたい。彼らの強い思いが時代も場所も越えて甦ってくるような気がする」
そこでおれは、「生活することを肯定する作品を作りたい」は、津村記久子の気持や意思でもあるのではないかと、彼女の作品を思い出しながら考えた。
それで気が付いたのは、日本にも、日常を愛したり、生活することを肯定する文学作品は、あることはある。ところが、食、とくに飲食や料理のステージがテーマとなると、たいがい「食エッセイ」とかいうものだが、日常や生活から離れる内容が多いのは、どういうわけか、その書き手のココロが気になった。
このことは、「生活料理」と出あってから、たびたびぶつかっては忘れているモンダイなのだ。「料理」にわざわざ「生活」をつけなくてはならない状況は、かなり変わってきてはいるけど、タテ型「上下」「優劣」の価値観は根強くはびこっている。「職人仕事」にのめりこんでいく傾向も、あいかわらずだ。なかなか、みなが同じ生活の地平に立つのが、難しいのだなあ。
たとえば、100円ショップのものや安物で整える日常や生活より、文化の香りが高い職人仕事や高品質のものがある日常や生活が質も高く文化的であるとするような、つまりは「生活することを肯定」するのではなく、そこにある「モノ」によって生活の格付けを行うような風潮は、けっこう根強いのだな。
日常の生活を愛おしく送るためのもろもろの仕事(家事などね)については、「実用」であり「文化」あつかいされない。こんなものが「文化」といえるのだろうか。「文化」でもいいのだが、どういう「文化」なのか。
と考えていると、大衆蔑視や生活蔑視の「サロン文化」のような存在が、浮かびあがるのだった。
時代や場所を超えて、国家が栄えようが壊滅しようが、人びとは食べ働き生きてきた、そこにあることをもっとよく見なくてはな。
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