食の科学と文化のあいだ。
発酵と腐敗。どれくらいの周期かわからないが、ときどきこの話題が盛り上がるね。
そのたびに、発酵と腐敗は科学では区別がつかない、区別をつけるのは文化なのだ、テナことがいわれ、そうかそうかソウダソウダと話題は沈静化しては、またぶり返す。
何かしらの食中毒や、そうそう生レバ食禁止問題があった、自殺者まで出した鳥インフルエンザや、牛BSEやカイワレなど大騒動になった事件、喫煙や飲酒や放射能など、科学と文化のあいだが問われるようなことが食をめぐって、けっこうあった。
それぞれ異なる性質のものだが、コトは、不安や健康をめぐる文化の問題と密接な関係がある。
ところが、何かあると、科学様が厳正な水戸黄門様のように登場し、印籠のように科学をかざし、片づける。
ということが、平成になってからも繰り返されてきた。
不安や健康をめぐる文化について、理解が深まったのかというと、どうもそういうかんじはない。
放射能をめぐっては、社会的分断が深まったままだ。その状態そのものが、「科学的」だけでは解決しないことを証明しているかのようだ。そして、その分断状態が政治的に利用されたりする。ますます泥沼化する。いやはや。
「不安や健康をめぐる文化」というと、「食」や「食生活」や「食文化」に関わる人たち、というと、人間全部がそういうことになるが、何か研究したり書いたりといったことでという意味で関わる人たちのあいだでも、あまり議論にならない。
このあたりに取り組んでいるのは、昔から、宗教関係、それに占い関係あたりになるか。この関係は「不安や健康をめぐる文化」の「専門家」のようなものでもある。近年は「スピリチュアル」系といわれる存在も、無視できないだろう。
しかし、これらの関係は、すべて、「科学的でない」ということで片づける。という文化も存在しているようだ。
いまここに書いてきた「文化」という言葉の核心部分は「価値観」になる。
価値観は、基本的に、個に属する。だけど、自分の価値観を大切にしないで、「科学的判断」に頼る人が少なくない。疑似科学的というかんじのものもあって、消費期限や賞味期限などは、そういう「根拠」にもとづいている。
自分の価値観をメディアなどの権力や権威を利用して支配的なものにしようとする野心家も少なくない。科学的判断だろうと文化的判断だろうと、どんなに正しかろうと、自分の保持している権力や権威を利用して押し付けるのは、混乱を増長させるだけだ。
食の科学と文化をめぐる、めくるめく(って、こんなときいうのか)混迷。
科学とは何か、文化とは何か。食をめぐって問われている。もうずーっと長いあいだ。
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