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2018/10/08

これが間違えられた「普通」の実態か。

昨日のエントリーの続きになるが。

今日たまたま、ネットでこんな見出しが目にとまった。
「自閉症児と母の17年を追って学んだこと 「普通」を捨てて、我が子のために人生の目標を設定する  心と体の性が一致しない次女、ヒカリと私に与えてくれた希望」
https://www.buzzfeed.com/jp/tadashimatsunaga/yuta-hikari?utm_source=dynamic&utm_campaign=bfsharetwitter&utm_term=.ng3v7B46X

性同一性障害の子を持つ母親で医師をしているひとが書いている。「普通」という言葉がどう使われているか、つまんでみると、こんなぐあいだ。

自閉症の子(勇太)の「母は自分の親から英才教育を受けて育ったため、勇太君にも英才教育を施していました。勉強ができて、いい学校に行って、いい会社に入って、いい家庭を築くことは、母にとっての夢だったのです」「しかしこの夢はよく考えてみれば、私たちの誰もが頭の中に描く夢です。そういう意味では「普通」の夢です」「親は子どもに「普通」の夢を抱きがちだ」

「私は聞き書きを進めるうちに、知的障害のある自閉症児を受容し育てるということには、健常児の子育てにつながる課題があることが見えてきました」

「個人的な話になりますが、私の子どもも「普通」の道を歩んでいません」

これがまあ、実態ということなのだろう。

しかし、この著者や「母」が受けた「普通」からの抑圧は、酷いし根が深いと思う。

「末は大臣か博士か…」という言葉がある。近代が始まった明治からの立身出世思想を象徴するものだ。政治家か学者がだめなら軍人、それがだめなら新聞記者…というぐあい。森鴎外は軍人だったし、夏目漱石などは新聞社の社員として新聞に小説を発表していた。彼らの引き立てで、出世(世に出た)作家も少なくなく、現代の「文芸」はその上に成り立ってきたといっても過言ではないだろう。おれは新聞記者に「作家」も含めてよいのではないかと思っている。

こういう職業序列の価値観や優劣観があり、その構造のもとで「上」をめざすのが「普通」で、そこからはずれたら普通以下、というかんじの社会が続いていた。

戦後「民主主義」とやらの社会になって、大衆社会が出現し、戦前のこういう「序列の価値観」が根本にありながら、職業の序列に新たなものが加わったりしたが、「いい学校に行って、いい会社に入って、いい家庭を築く」が「「普通」の夢」となった。

高度経済成長から70年代ぐらいまで、その「普通」は「人並み」といわれたりした。

そういう見えない抑圧は強く働いていて、それに慣らされてしまった「普通」が蔓延する一方で、さまざまな「障害」を抱えることは「普通」をあきらめなくてはならないかのような苦しみを与え続けている。

間違っているのだ、その「普通」は。抑圧で歪んでしまっている。

今日ツイッターで知ったのだが、このあいだからの『新潮45』の差別発言と休刊をめぐり、同じ新潮社の『新潮』編集長・矢野優というひとが編集後記でコメントを出したとのことだ。

「言論の自由や意見の多様性に鑑みても、人間にとって変えられない属性に対する蔑視に満ち、認識不足としか言いようのない差別的表現だと小誌は考えます」

その最後は、「「新潮45」は休刊となりました。しかし、文芸と差別の問題について、小誌は考えていきたいと思います」とある。

なんだか、アマイなあ、あいかわらず「文芸」ってのはエラそうだなあ、と思った。

差別的表現を生む根底にあること、そこに「文芸」とやらの、あの漱石や鴎外の時代からの、権威主義にまみれた文芸優越思想は関係ないと言えないだろう。そのことについて、どれぐらい考えているのだろうか。

何が「文芸と差別の問題について、小誌は考えていきたいと思います」だ。ケッ、ヘッ、ブッ。

差別にいたる、いわれのない抑圧に加担してないか。メディアに関わっているものは、とくに考え続けなくてはならないと思う。当たり前の普通のために。

ま、「普通」以下のフリーライターのたわごとですが。

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