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2018/10/01

食堂とカフェ…日常、生活、普通、自分なり。

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「食」「食生活」「食文化」という言葉は、よく使われるが、その概念や境界などは、イマイチはっきりしない。どういうジャンルなのか、あるいは何かカテゴリーみたいなものなのか、これらの言葉を使っている本人もアイマイなままであることが珍しくない。たいがい、ときどきの文脈にあわせて自分に都合よく使っているのが実情だろう。

ま、言葉を操って商売するものというのは、そういうペテン師みたいなことをせざるを得ないし、そうして自分がその分野の専門家であるようなフリをする。人々は専門家にヨワイからだ。

しかし、ジャンルやカテゴリーなどは、アイマイでもいいのではないか。アイマイだからこその魅力があるのではないか。って、平成の食堂とカフェを調べていて、そう思った。

スペクテイター42号「新しい食堂」で、いまさらながら平成の「カフェ・ブーム」が気になっているのだ。

「新しい食堂」特集リードを、編集部の赤田祐一さんが「"割り切れなさ"の魅力」のタイトルで書いている。

赤田さんは、チェーン系は「やはりビジネスが勝ちすぎて、効率や利潤を追い求めすぎる。食べることのなかにある「きちんと割り切れない要素」を消しにかかっていると感じさせることが多い。/しかし、その「割り切れなさ」こそ、愛される店の本質であり、じつは食堂の存在理由ではないのだろうか――そのあたりの考えを以前から明らかにしてみたいという思いがあって、「ウナカメ」に出会ったのをきっかけに、食堂の特集を企画しました」と書いている。

おれは「結局、食堂って何?」に、食堂は定義されてないし定義できない、そのように食堂は「ゆるい」存在であると、「食堂めしの雑多雑種雑食性」を強調している。ほんと、「割り切れない」ままなのだ。

割り切れないといえば、この文章を書いてから、「カフェ」の割り切れなさも気になりだした。

ってことで、近年の「カフェ・ブーム」を調べていたが、なかなかよい資料が見つからない。でも、あった。

これは商業出版物ではない。かつての雪印乳業が発行していた『SNOW』という月刊誌だ。どの号も資料価値の高い特集を組んでいるが、2001年1月号で特集「カフェでごはん、する?」をやっているのだ。これが充実している。

リード文には、こうある。

「カフェのごはんが、話題だ。メニューは和・洋・中・エスニック、軽食からメイン、デザートまで、何でもあり。しかもおいしくて、ボリュームがあって、リーズナブル。ごはんのうまいカフェ。それが今のカフェの必須条件。もちろん飲み物だけでもいいし、アルコールも、よりどりみどり。昼間っからほろ酔い気分で、心地よい音楽にまどろむもよし。ああ、こんな店が、なんで今までなかったんだろう!!」

「ここ数年、東京ではカフェ人気が続いている。ターニングポイントとなったのはシアトルから上陸したスターバックスの成功だ」

で、この特集が注目しているのは、そういうブームにのった企業的な取り組みのカフェではなく、「個人オーナー(もしくはそれに近いかたち)によるカフェ」なのだ。

「それらは「自分にとって心地よい空間をつくりたかった」という点で共通している」

そして、当時そういうことで注目され人気もあった3つの店の店長の鼎談が、ページをたくさん使ってシッカリ載っている。

池尻大橋〈太陽〉の畑順子さん、高円寺〈HERE WE ARE marble〉(よするに「マーブル」ですね)の三浦武明さん、吉祥寺〈FLOOR!〉の森田大剛さん。順番に、68年生まれ、74年生まれ、73年生まれで、いまでも活躍されているが、当時すでに注目をあびていた。

この鼎談には、「ブームといったって、普通のことを当たり前にやっているだけなんだけど。」のタイトルがついている。

彼らの店は、「カフェ」は名のっていないし、「カフェ」を意識しているわけじゃない。「今カフェといわれるものは、大企業や大資本がつくり出したものじゃなくて、個人がほんとうに好きなことをやっているだけですよ」(森田)と言っている。

ジャンルやカテゴリーにこだわっているのではなく、自分なりの価値観にこだわっているのだ。このあたりは、「新しい食堂」に登場している店主たちにも共通するし、ほかにも、「生活」や「日常」「いろいろな人が集まる場所」といったあたりが共通したキーワードになっている。

これは、チョイとおもしろい。

ジャンルやカテゴリーにこだわらず、「生活」「普通」「日常」「自分なり」に近づくほど、割り切れなさが増すのではないだろうか。

そして平成というのは、消費主義とビジネスがもたらす均一化や高級化が進む一方で、「生活」「普通」「日常」「自分なり」が見直されてきた、といえそうだ。

阿古真理『昭和の洋食 平成のカフェ飯』(筑摩書房、2013年)に、「角田光代作品の食卓」という文章がある。阿古さんは角田光代『庭の桜、隣の犬』(講談社、2004年)の食事に関わるところを検討し、「私たちが見失ってしまったのは、日常生活なのかもしれない。この小説で、そのことを象徴的に表しているのが、食卓に関わる場面である」という。

なかなか興味深い指摘だ。

失われた日常や生活への関心の高まりがありそうだ。

もともと大衆食堂は、「生活」「普通」「日常」「自分なり」の世界だったが、平成になってその多様化が進んでいるともみることができる。

一つのジャンルやカテゴリーにおさまりきらないおもしろさ。

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