「中腰で堪える」。
2018/09/29
「東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」72回目、小岩・サンゴ亭。」では、春日武彦さんの「さまざまな幸福 宮崎市の大衆食堂」にある文を引用している。
春日武彦さんといえば、「中腰で堪える」というオコトバがある。
近ごろは、とくにツイッターなどもあり、このオコトバを噛みしめることが多い。ツイッター世間だけにかぎらない、世間は何かとセカセカあわただしく、 何かと急いでシロクロつけたがる傾向に走っているようだ。そして、その害の悪循環にはまっているかんじがある。
ツイッターの「炎上」などは、ツイッターだけじゃなくインターネットのニュースからオールドメディアまで巻き込んで、たちまちどこが問題の出発点かわからなくなるほど、コロコロと事態が変化し、憎しみや敵愾心などが残骸として山積になる。さらに、それをもとにつぎのネタへ移動し、憎しみや敵愾心を、さらに燃やす。もうそのあわただしいこと。
75歳になったジジイのおれは、ついていく気もないが、ついていくこともできず、ボーゼンと中腰で堪えている。
「中腰で堪える」について、春日武彦さんは、このように述べている。
「「中腰で堪える」ってぼくは言い続けているんですが、まさに、それは「待つ」ということと同じ意味ですよ。/即対応しないで、とりあえず待ってみること。あえて中腰で堪えてみれば、/その決意をもたらした心の強さが事態をいい方へ展開させる可能性を掴み取ってくるかもしれない。/もちろん、実際のところは、わからない。でも、「中腰で堪える」方が精神にとっては健全だと思うんです。」
そうだよなあと思うね。
こういう健全が失われ、批判はもちろん、ちょっと疑問を投げかけられたぐらいや、感想ていどのおかしくない?ということでも、まるで自分が否定されたかのようにキッとなって即反応し、相手を言い負かすことに血道をあげる。
中腰で堪えるどころか、完全に腰が伸びきっている。
それは精神的な余裕のなさもあるかもしれないし、思い上がりもあるのかもしれんないし、ま、とにかく、こういう状態はニューメディアやオールドメディアの支配的な「空気」みたいになっているようで、ほんとうに不健全だ。
そうそう、この春日武彦さんのオコトバは、『「談」100号記念特集』に「無意味なことに魅せられて……ささやかだけど役立つこと」にあるのだ。
ここでも春日武彦さんは幸福について語っている。
幸福の多様性は、いうは易しいが、「寛容」にしても、実際はなかなか難しい。「生産性」といった価値観の一元化も浸透しているなかでは、ますますだ。
「なんでもかんでもすぐに解答を出そうとすることがよくない。もっと「待つ」ということを考えた方がいい。「待つ」ことの意味を問うべきだ」
精神を健全に保つ要素として、「中腰で堪える」のほかに、二つあげている。
「最初に言った「別解」ですね。こういう考え方もあるけれども、それとは違う考えもある。いろいろな答えがあるんだということ、あり得るんだということ、それが重要だと思う」
「さらに、もう一つ、付け加えるとすれば、自分を客観視する能力」
自分を客観視する能力なんて、なかなか難しいが、中腰で堪えることができれば、なんとかなるのじゃないかな。これについてはワタシが絶対正しい、なんていう腰が伸びきったことでは、とても無理だね。
うふふふ、そういう腰が伸びきった人たちが争って自滅するのを、おれは中腰で堪えているようだ。これは、大衆食堂的、といえるかな。
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