ロックな日々。
25日は第4木曜日で、居酒屋ちどり@北浦和での円盤企画「URCレコード全部聴く会」の7回目だった。今回も収穫がたくさんあったが、『日本ロック史』を入手できたことが大大収穫だった。
28日の日曜日は、埼玉朝鮮初中級学校の祭りへ行った。この夏、初めて知人に誘われてそこで開催のイベントへ、北朝鮮本国へでも旅するようにキンチョーして行った。そこでの体験が刺激的だったので、もっと在日の人と話してみたいなあと思っていたら、また知人から誘いがあったのだ。夏のことは、『四月と十月』に連載の「理解フノー」の最新にちょっとだけ書いたが、今回も酒を飲んだり食べたりしながら、いろいろ知ることができたし、あれこれ話しあった。こんどは、イベントではなく、もっとゆくっり話しあえるといいなあ。
29日の月曜日は、某女子大で食文化学科を専攻している4年生の学生が、卒業論文・制作に食堂の本をつくるので話を聞きたいというから、赤羽で会った。いまどきの大学の食文化学科とはどういうものか、いまどきの女子大生はどういうものか、こちらの方が興味津々だった。かなり年齢のちがう女子大生とうまく話せるかなあとキンチョーしていたが、けっこう楽しく突っ込んだ話ができた。初めて知ることも少なくなく、参考になることも多かった。
ってことで、とてもロックンロールな日々だったのだが、今日は、まず、この『日本ロック史』だ。
こんなに面白い本は、ひさしぶりだ。めったにない。そうだなあ、おれの『ぶっかけめしの悦楽』以来の面白さだな。
高円寺の円盤の田口さんが発掘したデッドストックの『日本ロック史』の著者は田沼正史。無名の人物だ。田口さんのフルネームが「田口史人」で、二文字ちがうだけだから、その田口さんに発見されたのも、何かの縁かもしれない。奥付によると、加美出版、昭和60年2月2日の発行。
文庫本の横を短くしたコンパクトなつくりだが、内容が濃く熱い。
前文にあたるところに、こういう文章がある。
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日本にロックが登場してもうすぐ二十年がたとうとしている。しかし現在、そのロックの歴史は、商材の再編集をきっかけにして大きくゆがめられ、実際に現在のロック状況につながる古層について、その社会的な事実を検証することは後回しにされるようになってしまった。ロック史観は、現在活動している音楽家の個人史に収斂され、その人脈に関わったものだけが、あたかも当時から社会的に重要な位置にあったかのように曲解、誤解されるようになってしまった。
ロックという音楽が当初よりメディアとの共犯関係を持ちながら発展してきたことを考えれば、このことは至極当然の状況と言うこともできるわけだが、そのことにより、当時たしかに時代に大きな足跡を残したにも関わらず、墓も建てられず、成仏できぬ亡霊として霧散させられようとしている状況にはなんとも忍びがたいものがある。
現場に生きていれば当前に感じられた不可逆な時間の積み重ねが歴史を型造ってきたというのに、現在の情報社会の仕組みの上では、いとも簡単に歴史が再構築されてしまうのは、いったいどうしたことであろう。その社会学的考察も成されるべきであろうが、ここではまず、その歴史観を修正することから始めたいと思う。いわば時間という縦軸の再検証である。
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と、まあ、ほんに、ロックな内容なんですよ。
しかも、これ、ロックにかぎらないんだよね。食の分野なんか、もう、めちゃくちゃ。いまでも、とくに権威ある在来メディアと共犯関係の者たちによって、どんどんスピーディに塗り替えられ、かなりゆがんでいる。
てか、もう全体像なんか誰も気にしてないのね。パブリックな立場として、どうであるかとかより、自分の立場や私縁や私怨、実力ある?有名な?誰かさんと誰かさんと、その人脈に引っかかったものだけが(反対者には憎しみをこめて)、書き残されていく。
情報は、その人脈に沿って、偏ってふくらんでいるだけなんですよ。そんなものが「いい作品」「いい仕事」なーんてもてはやされたり。「いい」の基準すら、彼らによって勝手に決められていく。
いいかげんにしろ。そういう「縦軸」を少しでも正そうというのが、この本で(おれの『ぶっかめしの悦楽』もそういうものだったけど)、とにかく面白い。
近ごろは、何かというと、冷静に淡々と静かで品がよいばかりで(じつは冷淡なだけ)、さっぱり「熱」がないものが多いけど、この本は、前文にあたる文章から「熱」がある。
はあ、しかし、この本から30年以上がすぎたのに、どうなんだろう。
それにしても、ロックは、いいねえ。
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