「共生」も「寛容」も容易じゃない。
そういうことだ、「共生」も「寛容」も容易なことじゃない、だけど、いつごろからかねえ、「共生」だの「寛容」が強調されるようになったのは。80年代90年代は、あまりそんな言葉は聞かなかったと思うなあ。とおれが言うと、やっぱり2000年代からかしら。と、彼女が言った。
その前は、どうだったのだろう、「共生」や「寛容」は容易だったのだろうか、それが難しくなったから、「共生」や「寛容」がいわれるようになったのだろうか。
私は昔のことは詳しく知りませんが、難しくなったというより、グローバル化や個人主義などがすすんで、「共生」や「寛容」を以前とはちがうレベルで考えなくてはならなくなったのではないかしら。そう考えたほうがいいような気がします。
テナことをあれこれ話していたのだが、ようするに「共生」も「寛容」も容易じゃないということだった。それは、一人ひとりが成長しなくてはうまくいかないし、だけど、みんなが同じように成長するわけじゃない、この世には「しがらみ」というものもあるしねえ。とくに日本では。
そうそう、そこに「多文化共生ビジネス」が成り立つんですよ。これは必ずしも「多文化主義」ということじゃなくて、シェアエコノミーのようなものも含め、それとやっぱりIT。
そうかあ。
もうおれはトシだから面倒なことは考えたくないし考えられないが、彼女は、これからなのだ。高卒だけで20年近く生きてきたが、40を前に、この9月に新学期が始まる大学に入った。経営学を学んで、これまで世界と絡みながらやってきた仕事の経験を、もっと生かそうという。
前のエントリー、2018/11/19「鬼子母神通りみちくさ市、談話室たまりあ+佐藤亜沙美。」に書いた、滝口悠生の『茄子の輝き』(新潮社)と『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』(新潮文庫)を20日に買って、『茄子の輝き』から読んでいる。帯に津村記久子のコメントがあるが、おれが小説の単行本を新本で買うのは、津村の『この世にたやすい仕事はない』(日本経済新聞社、2015年10月)以来だ。大変なジケンだが、『茄子の輝き』は、なかなかおもしろい、おれの好み、買ってよかった。
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