東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」73回目、両国・下総屋食堂。
これは先月19日の朝刊に掲載のものだ。きのうの本紙朝刊で今月の分が掲載されたから、一カ月遅れということになる。こういうときは、「のんびり行こうゼ」と、いってみる。もちろん、すでに東京新聞のサイトでご覧いただける。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2018101902000208.html
めったにないことだが、上の配膳の写真、どれぐらいの人が気がついたか。ダンチューなどには、こういう写真が載ることは、ゼッタイにない。
かれい煮は、一般的には、皮の色が黒っぽい茶の「背」を上に出して盛り付けられることが多いはずだ。魚屋などに生で並んでいるときも、そうだ。ところが、これは、白い「腹」を出して盛られていたのだ。
こういうことは初めてじゃないが、メディアに載せる写真として撮るのは、初めてだった。いったん、箸でひっくりかえそうかと思った。ま、「正しい」フォトグラファーやライターや編集者だったら、そうするだろう。
が、やめた。だいたい、なんでこんなことに気が付いたのだ、おれは業界標準の「正しい」ライターになったのか、掲載用の写真を撮るのでなかったら、気にしないでただちに食べ始めるところではないか。
ってことで、そうしたのだ。食べるにも、ひっくり返さず、この向きのまま突っついた。
そのままのリアリティとやらにこだわったわけじゃない。かりに「正統」があるとしても、これも「あり」なのだ、それでいいじゃないか。それに、おれは、正しいみなさんが、とかく「雑」とか「いいかげん」とか見下していることが、けっこう好きなのだ。
しかし、掲載になってみると、やはり、気になった。この写真を見て、なんだ、かれいの盛り付けも知らない食堂か、ライターも編集者も気がつかなかったのか、なーんて人がいないともかぎらない。親切なクレーマーは、新聞社に投稿するかもしれない。ゼッタイ自分は正しいと思い、それを疑わない人は、けっこういる。自分の「正しい」とちがうことに遭遇したとき、まずは自分を疑う、ということはしない。
賢明な読者ばかりだったのか、それともそんなことは、やっぽり普通は気にしないのか、ナニゴトもなかった。
かりに、背を上に盛るのが圧倒的多数だとしても、それは様式のことだ。その、どうしてかできあがった「あるべき様式」からはずれているにすぎないからといって、ただちにマチガイでワルイということにしてはいけないのだ。
たいがいの料理写真は、それぞれの「あるべき姿」をめざして撮影されている。それは、イチオウ「うまそう」でなければならないが、見なれたものが「うまそう」になる確率がヒジョーに高いのではないか。それに「あるべき姿」なんて、普遍的なものじゃない。信じるほうがおかしい。
などなど、このかれい煮の盛り方ひとつから、ああでもないこうでもない、いろいろなことが考えられるのだが、さらに、この写真のかぼちゃ煮も、盛りつけ写真としては、なかなかお目にかかることがないだろう。
が、しかし、このかれい煮もかぼちゃ煮もうまいのだ。おれは、すくなくとも感心しながら、食べた。
おれは、過去に口にした味覚をちゃんと覚えているほうではないが、下総屋食堂の「ごはん」が、とにかくうまい。その味覚と、おかずの味つけが、すごくあっている。と、このとき、あらためて思った。ハーモニーってのかな、トーンってのかな、あるいは波長、そういうものがありますね、それがうまくあっている。音楽みたいだねえ。だから、もしかすると、この「ごはん」あっての、このおかずなのかもしれない。
それに、その味覚は、建物やおかずの見た目ほどは、古い感じがしない。
個人経営の大衆食堂では、こういうことがときどきあって、チェーン店や、調理学校やお店でいわゆる「修業」した人が作るものにはない不思議だな。「修業」などで、あるていど整った方法(様式)の何かを得れば、何かを失うという関係がありうるのだ。
下総屋食堂は、戦前の建物のまま営業している。この連載で、戦前の建物で営業している食堂は2店目だ。1店目は、池袋のなみき食堂だ。
下総屋がある両国は、激しい空襲にあったところだから、「戦災をくぐり抜けた奇跡の大衆食堂」といわれたりするが、オーバーではない。
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