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2018/11/26

一人ひとり違うのが普通だが、一人ひとりと向き合わない。

少し前だが、おれが好きな某食堂の店主がおもしろいツイートをしていた。

請われて飲食コンサルティングの会社の人と話したのだが、「経営としては彼らが言うことは正しく、指摘された部分に関しては改善せな、と思うばかり。ただ、1時間半弱話して、この人たちは自分の作る「料理自体」にはまったく興味がない、ということに気づく。それがなんともやるせない」と。

はあ、そのやるせなさ、わかるなあ。

「それは飯自体に限っての話じゃなくて、音楽でも書籍でも映画でもなんでも、その「内容」自体が評価されるのではなく、「どのように伝えられているか、興味深く見せられるか?」ばかり語られてる気がする。それが、本当につまんない」という。

そういうつまらなさは、マンエンしているね。

おれが思うに、「「内容」自体が評価されるのではなく」ってことについては、内容に関心がないこともあるが、それならまだマシかもしれない、よい関心を持ってもらう可能性があるだけ。

モンダイは、「内容」について関心は高く知識もあるが、まるで見当違いな自分が「正しい」とする方向や感覚ばかりから内容を評価する、その尺度が杓子定規だということ。これ、わりと多い傾向だ。ま、さまざまなコンサルタントもちろん、評論家や主要なメディアで活躍する影響力のある、いわゆるオピニオンたちは、たいがいそうだよね。それをまたお手本にする人たち。

ツマラナイことばかり書いたりしゃべったりしている。彼らには、一人ひとりが見えているのだろうか、どんな一人ひとりが見えているのだろう。「自分と同じ」か「自分と反対」ばかり意識して、そのほかの圧倒的多数のはずの一人ひとりが見えてないのではないか。そう思うことが少なくない。

それに「同じ」も「反対」も、一人ひとり違うはずだろう。自分に都合よく分類しカタマリにしちゃうんだな。

一人ひとり違うのが普通であり、だから、一人ひとりと向き合うのが普通だろう。一人ひとりと、どう向き合うかだ。という内容の関心は希薄のようだ。

有名であるとか肩書や仕事などの社会的地位、男女の違いや年齢の違い、「上品」とか「品がある」とか一般的に好ましいとされている文化的尺度、売り上げや利益など商売では当然とされる経営的尺度、先輩・後輩・同輩・友達・家族や血縁関係・派閥などなど縁故のよしあし、はては着ているものや言葉づかいまで、「一人」その「個」それ自体ではなく、「属性」のほうが大事であり関心が高いばあいが多い。一人ひとりでなく、属性をグルーピングして、カタマリにしてしまう。

それで、より成功しようとなれば、よりよい「属性」を得るための、自分の「売り」と自分のための「動員」に励むことになる。結果、そこは、そのための言葉があふれ、人間一人ひとりと向き合う言葉が失われていく。でも、そういう界隈では、それが「普通」なのだ。

そういう誤解された「普通」を求めて「均一化」と「均質化」が進行する。って、これ、前にも書いたな。飲食店の分野だけじゃなく、音楽や書籍、おれは映画は最近みないからわからないが。

石を投げれば、そういう界隈にあたる。

でも、一人ひとりと向かい合いながら商売している人たちもいる。おれのまわりでは、増えている感じなのが、うれしい。

文芸も捨てたもんじゃないな、と、滝口悠生の『茄子の輝き』を読んで、衝撃と刺激を受けたし、普段の普通をどう書けばよいか迷いがあったおれにとってはチョイと展望がひらけた。もう75歳だってのに、いまさら展望がひらけて、どうする。

『茄子の輝き』には6つの連作と、最後に「文化」という掌編がおさまっている。

「特別強い意欲や高い意識を持つ者がいるわけではなく、そういうものを持たずともやっていける。また、みんなそんなに頭がいいわけでもない、日本中のどこにでもあるだろう、そういう会社だった」

連作のほうの主な舞台は、そういうところであり、そこで働く「私」がいる。「私」や、そこの会社の人たちは、近くの神田川沿いの居酒屋で昼飯を食べ喫茶店で休憩する。居酒屋も昼飯も喫茶店もコーヒーも、その会社のように、日本中どこにでもあるだろう店だ。

そういう普通を書いて「輝き」を読ませるのだ。おれはまず、それがおどろきだった。

最後の「文化」というタイトル。これは、定年退職後の年金暮らしかと思われる男が、どうってことない元は中華屋だった居酒屋で、中瓶のビールと餃子を注文して、餃子を食べビールを飲みほすまでのことだ。いやあ、おどろいた。すばらしい。

一人ひとり違うのが普通なのだ。味覚も食べ方も違う。そこに文化をみなくてはなあ。

「上品」に「品よく」そろえるのが「文化」だと、飲食にもそれを求める流れが強いけど、それは単に見た目や肌触りがよい「均一化」や「均質化」に行き着くだけだ。

もっとも、「個」として扱ってほしくないという人が少なからずいるのだけど。

当ブログ関連
2018/10/08
これが間違えられた「普通」の実態か。

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