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2018/11/24

東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」74回目、佃・亀印食堂。

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今月16日の朝刊に掲載の74回目は、佃の食堂だ。例によって、すでに東京新聞のサイトに載っている。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2018111602000185.html

かつての佃島は、江戸開府の頃からどんどん変わってきたようだが、近年の「世界有数のビックプロジェクト」とかいう、もしかすると天下の愚策かもしれない、俗称「ウォーターフロント開発」は、その姿を決定的に変えた。

Dscn9917広かった空を圧迫しながら、高層建築物がニョキニョキ突っ立ち怪物のように押し寄せてくる中に、亀印食堂とその一角は、ここにかつてどんな暮らしがあったかを伝えている。といっても、肩ひじ張ることなく、何気なくゆったり静かに佇んでいるのだ。

おれは1971年秋に転職してから、この界隈によく行くようになった。このあたり、つまり佃島や月島のあたりには、大きな倉庫と工場があって、クライアントの冷凍冷蔵倉庫や冷凍工場などもあったからだ。この地域は倉庫と工場以外は、「屋敷」のようなものはあまりなく、たいがいが木造の小さな家か長屋だった。

といった話は、おいといて。

近年になってからも、なんだかんだ行く機会があったが、行くたびにたいがいここでヤキソバやオムライスなどをつまみに飲んでいた。飲むばかりで、マジメに食べたことはなかった。昔の木造のゆったりした造りの店内は渋く、ほんと、落ち着くのだ。

今回は、看板のうどん、それも最高額の鍋焼うどん800円を食べた。見た目から、まったく気取ってない、普通の鍋焼うどん。冷たい風が吹いている日で、あったかいのが、すごいうまく感じた。

ここから住吉神社は近い。5分も歩かない。江戸の名残の堀が残る住吉神社の裏にも、ニョキニョキの怪物が迫っていた。

鳥居のほうにまわり、隅田川の岸に立って、かつて佃の渡しがあったところを眺めたが、もちろん、そこがそうだったという説明書きなりを見なくては、ただのコンクリートの岸壁だ。

佃大橋が完成したのは1964年の東京オリンピックの直前で、それまであった佃の渡しはなくなった。

おれが上京したのは、1962年だから、まだ渡しがあったのだが、乗ってみようかという気になったことはない。その頃は、永代橋を通る都電を利用して月島のほうへ行くことがあった。そんなときは、当時は隅田川のニオイがひどくて、クサイのやキタナイのはそれほどキライじゃないおれでも、とても渡し船に乗ってみようという気にはならなかったのだ。

とにかく、亀印食堂へ行ったら、あたりを散歩する。いや、あたりを歩いてから亀印食堂へ行くのか。どっちでもいい。

四方田犬彦の『月島物語』を読んでは、月島や佃が「労働者の町」だった頃を思い出したり。そうそう、『月島物語』によれば、吉本隆明の育った家は、亀印食堂のすぐ近くだったようだ。どうでもよいことだから、よく調べたことはない。

亀印食堂が、なんで「うどん食堂」なのか、いつも気にながら、いつも聞くのを忘れてしまう。今回も、聞き忘れてしまった。

そんなことより、いつも店の前の鉢植えが何気なくよくて、ひかれる。看板も暖簾も鉢植えも一体になって、何気なくいいのだ。この「何気なく」がいいのだな。ここでの食事も何気なくいい。

何気なく生き、何気なく仕事をし、何気なく歩き、何気なく飲み何気なく食べる。いいじゃないか。

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