このコップにも愛をくだせぇ~。
ありふれた普通に光をあてて書くのは難しい。おれは、ありふれたものを美味く、なーんて言っているけど、ありふれたものを上手く書くのは、ほんとうに難しい。
だいたい、何らかの意味において「突出」しているものがネタになるのであり、とくに飲食の分野では、「うまいもの話」や「いいもの話」「いい仕事話」など、いいもの、いいひと、いいナントカナントカがあって成り立っているばあいがほとんどだ。
まあ、人間を堕落させる悪い環境だね。
突出していることを書いていれば、人びとの関心や注目を浴びやすいし、売りやすい。かくて飲食の話などは、普通より優れていたり好まれていると評価されやすいものや、極端な珍種や変種(有名人のめしや東京視点でローカルな食べ物もこの部類)のこと、あるいは平凡だけど感動ポルノ仕立てにしやすいものなど、ようするに「ネタ」に頼っているものが圧倒的に多い。
突出ばかりを追いかけていると、ありふれた普通が視野から失われたり、平凡を見たり書いたりする思想や言葉が衰退する。衰退していても、突出で受けている本人は気づかない。そして、衰退は繰り返される。
ということを、ときどき感じていたのだが、またまた滝口悠生『茄子の輝き』からの引用になるのだが、この部分で、あらためてそのことを考えた。
これは、この本に収められた「文化」というタイトルの掌編にある。
以下引用…………………………
私は空いたグラスにビールを注いだ。それでグラスを顔の高さまで持ち上げて眺めた。手のひらからわずかにはみ出るばかりのその小さなグラスを、懐かしむようにも、愛でるようにも見えた。いくらか芝居がかっていたが、なるほど、たしかにあらためて眺めてみたくなるようなものでもあった。大人の手に握られると、昔から変わらぬそのグラスが思いのほか小さなことがわかり、その小ささだけで昭和の時代を思い起こさせた。
…………………………引用終わり。
これを読んだときは、ハッとしましたよ。
『茄子の輝き』の帯には、津村記久子のコメントがある。
「一見希薄な生活の底にある、丹念で精細な世界。その光景は、同じ希薄さを生きる私たちを確かに救済する」
このグラス、おれがガキのころから「コップ」といえばこれしかなく、水道の水を飲むにも、渡辺のジュースの素をといて飲むにも牛乳を飲むのにも、のちにはビールやコップ酒を飲むにも、ものを注いで飲むとなると茶碗以外は、これしかなかった。
いま、わが家を見ると、このコップは一つもない。ビールはなんで飲んでいるかというと、民芸調の焼き物のマグカップだ。なんてこった。
大衆食堂では、たいがいこのコップだ。きのうの写真にもある。よく見かけるが、おれはありふれた景色として流していたのだろう、滝口悠生のように見たことはない。
べつに、このコップを軽んじたつもりはないのだが、ありふれたものをもっとしっかり記憶に留めておかなくてはなあ。留めておいたつもりでも希薄になっていくのが記憶だから。
『茄子の輝き』は、記憶の生き方の本でもあるのだ。
とりあえず、このコップを買って、毎日手に握って酒を飲もう。あらためて、見れば見るほど、シンプルでいいじゃないか。べつに作家のコップじゃなくてもいいのだ、生活するはわれにあり、だからね。
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