捕鯨問題。対極―対立―対決―強行―?
「政府は20日、クジラの資源管理について話し合う国際捕鯨委員会(IWC)を脱退し、IWCが禁じる商業捕鯨を北西太平洋で約30年ぶりに再開する方針を固めた。」というニュースが流れた。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181220-00000086-jij-pol
これはなんですかねえ、「日本の国際機関脱退は極めて異例。日本は、クジラを食べる食文化や適切な規模の捕獲は正当との主張のもと、捕鯨を行う考えだ。」「商業捕鯨は、来年にも日本の排他的経済水域(EEZ)や近海でのみ実施する見込み。」だそうですよ。
近ごろこのことについては追いかけてないのだが、70年代におれが「食」のマーケティングに関わったころのクライアントは、何しろ「ホエールズ」っていう球団を持っていたぐらい捕鯨で有名だった。
70年代、鯨の資源問題が大きく取りざたされ、やがて80年代になって商業捕鯨は禁止される。その過程で、日本は国際的なPR会社なども使い、商業捕鯨の継続のために様々な手を打ってきた。そのあたりのことは、ボケて忘れたこともあるようだけど、いろいろな情報を入手できる立場にいた。
実際のところ、日本の立場は難しかった。資源問題と伝統的な食文化は、ちがうレベルのことだし、そもそも環境や資源については、その考え方から、日本はユニークだった。
70年代についていえば、鯨に限らず、日本の漁業は世界の海を荒らしまわっているという批判も強く、それをかわすためにいろいろな手が打たれていたが、「不信」を金でごまかすようなやり方が、捕鯨問題にもはねかえっていた感じもあった。そういえば、あのころ、やり玉に挙げられていた「商社」は、近ごろはうまく立ち回っているようだけど、あのころの教訓が生きているのか。
日本が鯨に限らず地球の環境や漁業資源の管理について、もっと真摯にのぞんでいたら、あるいは捕鯨に関しても、ちがった展開があったかもしれない。それは、いまでも、そうだろう。環境や資源について、「鈍」すぎるのだ。消費的な味覚については真摯で繊細らしいのだが。それがどうして環境や資源につながらないのだ。
ほんと、鯨資源のデータに関しては議論のあるところだろうけど、それで「脱退」ってのは、どうなんだろう。文書改ざんがまかり通る国がさ。姑息な政治的駆け引きのつもりか。
食文化についていえば、鯨にかぎらず、「食べる/食べない」は文化の「ちがい」にすぎず、あるいは「対極」の価値観につながることはあるかもしれないけど、それが直線的に「対立」や「対決」になるのは、どこかおかしい。戦略がなさすぎるのか、日本人のメンタリティの問題なのか思考の問題なのかはしらないが、そういう「対極」にすぎないことがらを、すぐ「対立」や「対決」の関係にもちこむって、よくあるな。
こういうところに「食文化」や「伝統」なんてのが使われるのは、おれは嫌だね。
ああ、今日は、コーフンしてしまった。これぐらいでやめておいたほうが吉だな。
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