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2018/12/10

「細分化」はどこまでゆくのかねえ。こわいねえ。

平成のはじめごろ、「蛸壺化」なんてことが騒がれ、「セグメンテーション」が生き残り戦略のようにいわれることもあり、そのあたりが「オタク」などにとばっちりしながらぐちゃぐちゃ、とにかくやたら「細分化」が進んだ。平成は細分化の時代だった、といえそうだ。

産業社会のゆきづまりの結果の情報社会のせいなのか、もともと日本人は「蛸壺型」なのか。

どうだ、いまや、出版の飲食の分野を見ても、カレー、ラーメン、丼物、餃子をなどは涙がたれるほど懐かしい古典的なテーマになり、どんどん細分化され、さぬきうどん、やきそば、たこ焼き、お好み焼き…、ラー油や発酵やスープや塩など続々、それぞれに「我こそは」という感じの情報通がいらっしゃって、なかなか鼻息もあらい。

きのうの話の「ナポリタン」だって、いまや「日本ナポリタン学会」なるものもあり、1995年ごろには「絶滅品種」かと思われていたハムカツにも「ハムカツ太郎」なる人物が活躍している。

パフェだのコーヒーゼリーだのという本もたくさん、もっと細かくは、ドコソコの有名店が一冊の本になってしまうのが続々。

細分化は、テーマだけじゃなく切り口にまでおよんでいる。食う飲むの本などは、テーマ×切り口で、際限なく細分化がすすんでいる。「立ち飲み」「センベロ」「一人飲み」とかとか、そこに酒器だの作法だのが交差して。

情報過多のなか、細分化し、わかりやすく、消費しやすく。アメ横の割りばしを刺して売っているカットフルーツみたいだ。カットフルーツ山盛り。デカイまんまのスイカを手で割ってかじりつきたいんだよ、と思っても、それじゃ「文化」になりませんという感じで、やたら細分化しては小ぎれいにし、知的に文化を気取っている。ま、なかには「闇市派」のようにキタイナイ系もないではないが。

おれの肩書も、「大衆食堂の詩人」とかいう、いくらか細分化されたものになっているが、「大衆食」や「大衆食堂」なんていう分類は大きすぎてカワイイものだ。

「分類」と「比較」は、人類の文化的所業の根幹であるにはちがいないが、昨今の「細分化」はそれとはちがうようだ。やっぱり、薄気味悪い「蛸壺化」の進行が、ますます深まっているんだろうか。ニッポン・スゴイからオレサマ・スゴイまで、わっしょいワッショイ。細かく知ることが深く知ることと錯覚されたり、全体像が失われ、いろいろ認知が歪んできている感じもあるし、とにかく薄気味悪い。

このあいだ、やはりある細分化された分野で有名な方が、「化学調味料は簡便さという最大の特長があり、それはそれで堂々と使えばいいのであって、自然のものなら何でも上という意識は、かえって魑魅魍魎の棲家となる。もっとシンプルに自分にとっての心地よさをみんなが追求するとよいと思うな」と言っていて、エッと思った。そういう話なの?

でも、こういうわかりやすそうな例が、わかりやすいからこそか、けっこう受け入れられるんだなあ。

「化学調味料は簡便さという最大の特長があり、それはそれで堂々と使えばいい」「自然のものなら何でも上という意識は、かえって魑魅魍魎の棲家となる」「もっとシンプルに自分にとっての心地よさをみんなが追求するとよいと思うな」。まるで別のことが、みごとにつなぎあわされて、なんだか「正しそう」になっている。

そして、こんな考えのなか、「自分にとっての心地よさ」を求め、さらに細分化が進むのだろうな。

ちょいと考えてみれば、「もっとシンプルに自分にとっての心地よさをみんなが追求」したら、やっぱり魑魅魍魎の棲家になることぐらいわかりそうなものだが、細分化された明晰な頭脳は、なんだかとても歪んでいる。

こうして、どんどん歪んだ認知が広がるのだろうか。うへへへへ、こわいなあ。細分化された魑魅魍魎だらけ。

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