ループの内と外。
きのうのエントリーに使った「劣化コピー」という言葉、最近どこかで見たような気がするなあと思って検索したら、あった。
「平成の終わりは、昭和末期の「劣化コピー」である〜ループする衰亡史」というタイトルで、與那覇 潤が書いている(2018年11月23日)
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58542
これ、当ブログの2018/04/01「「福島」から遠く離れて。」に書いた、円堂都司昭が『戦後サブカル年代記』(青土社2015年9月14日発行)の、「戦後史をふり返れば、似たモチーフが時代を超えて何度も登場したし、私たちは「終末(スクラップ)」と「再生の(ビルド)」のある種のループに閉じ込められているかのようだ」「日本人はいまだにループの外部を上手に思考することができず、過去を反復しようとしてしまう」という話と少し重なるところがある。
「歴史は繰り返す」てな言葉があって、現在はかつてのあのころに似ているという話はよくあるけど、與那覇の「ループ衰亡史」も円堂の終末と再生のループも、そういうのとチトちがう。とくに円堂のは、ま、本も厚いけど、重層的に解き明かしていて、考えるもとになる。
しかし、なんでこういうループにはまりやすいんでしょうねえ。と、いちおう、ループの外側にいて、それなりに苦労が多いつもりのおれは、思うわけだが。
そりゃそうと、きのう書いたように『あれよ星屑』を読んでいたら、山田風太郎の『戦中派不戦日記』が気になり、たいして本がない本棚から講談社文庫のそれを簡単に見つけ出しパラパラ読んでいた。
これは敗戦の年の昭和20年の記録なのだが、後半には闇市がたくさん登場する。新宿、新橋、三軒茶屋など。山田風太郎はいい家のお坊ちゃんの医学生だから、金さえあればなんでも手に入る闇市でいろいろなものを買っている。映画も見に行っている。おなじ戦後でも、金がなければ飢えた地獄の日々とは、かなり違う暮らしだ。
けっきょく歴史なんてのは、どの時代のどの人たちをどう見るかで、ずいぶん変わるわけだ。それでループにはまったりもするんだな。
『戦中派不戦日記』は何度もぱらぱら読んでいるが、今回気が付いたのは、いま、きょうあたりから「明日は真珠湾攻撃の日」と騒がれているけど、この日記では、まったくふれられてない。
まだ「敗戦」の実感もわかずボー然としたり激しい混乱のなか、「ガダルカナルの生き残りです」という傷痍軍人が町にいるなか、日本が太平洋で戦争の泥沼にはまっていくことになったその日のことなど、誰もが思い浮かばなかったのだろう。
1956(昭和31)年、経済白書は「もはや戦後ではない」とうたったけど、なにも終わちゃいない。まだ大勢はループのなかなのさ。
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